デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202

子曰。知之者。不如好之者。好之者。不如楽之者。【雍也第六】
(子曰く。之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽む者に如かず。)
 人間は何事でも唯之を知つて居るといふだけでは、之に対するに路傍の人を以てするが如き態度となり、首を突つ込んで見ようといふ迄の気になれぬものだ。殊に道に於て爾うである。単に道を知つてる丈けでは、この人必ずしも徳行家で無い。昔から「論語読みの論語知らず」といふ諺がある。これは論語を知つてるのみで、論語を好む心の無い人を評した語である。又「医者の不養生」といふ諺もあるが、不養生をする如き医者は、ただ医籍を知つてる丈けで、真に医療を好む心の無い医者であると謂つても決して過言で無い。
 下世話にも「好きこそ物の上手なれ」といふほどで、人も道を好むやうになりさへすれば、自づと道に向つて進み、道を実地に行ひ得らるるまでになるものである。然し、好むといふ丈けではまだまだ至らぬところがあつて、道を行ふに当り、苦痛を覚え、中途で少し七六ケしくなつて来でもすれば其苦痛に堪へ難くなつて、道を行ふ事を廃めてしまふ恐れがあるものだ。ただ衷心より道を楽む者のみが、如何なる苦痛をも苦痛とせず、如何なる困難をも忍び、敢然として道に進み道を実行してもゆけるのである。耶蘇が十字架に懸けられたとか、釈迦が六年間の難行苦行を積んだとか、又、孔夫子が陳蔡の野に苦しめられ給うたとかいふのは、一に道を楽んでゐたからできた事で、古来の発明家、事業家などもみな其道を楽む事によつて成功して居る。英吉利の冒険小説にあるロビンソー・クルーソーの話なども、茲に掲げた章句にある孔夫子の教訓を実地の物語に仕組んで少年にも解り易いやうに説いたものである。
 然し、楽むといふ事も余り昂じ過ぎれば、世間に迷惑を懸けるに至る如き場合が無いでも無いものだ。落語家の能く演る落話にある如く義太夫好きの家主が余りに義太夫を楽むの極、借家人の迷惑するのにも御構ひ無く、強ひて狩り出して来て之に自分の語る義太夫を無理にも聴かせようとするなどは、自ら楽む為に他人に迷惑をかける一例だが、これは楽んで淫するといふもので、人は如何に事を楽むからとて之に淫するまでになつてはならぬものだ。是に於てか孔夫子も「楽んで淫せず」と説かれて居る。人が楽んで淫するやうになるのは、ただ楽む丈けに止めて置かず、慢心を生ずるに至るから起る事で、義太夫だとてただ自ら之を楽むだけに止め、慢心を起しさへせねば、他人に迷惑をかくる如き憂の全く無いものである。「楽み」が昂じて「慢心」になつてしまへば、遂には他人へ迷惑をかける事にもなる。
 私は、随分社会事業の為に奔走し、養育院、理化学研究所或は又欧洲交戦国への見舞金など寄附金集めをやつてるが、決してラクなものでは無い。他人が出さうといふ気になつて居らぬ金を出させようとするのだから、中には「又渋沢の寄附金取りか」と、無理から家主に招集されて厭やな義太夫を聴かせられるのと同じぐらゐの事に思ひ、蹙面をせらるる富豪も無いでも無かるべく、斯く取扱はるれば誰とて余り快い心持のもので無いが、私に取つて其んな事が毫も苦痛にならぬのは、斯る事業の為に尽すのを私が楽みにして居るからだ。之を楽みにして懸りでもし無ければ、迚も寄附金取りに駆け廻る事なぞは行れるもので無いのである。他人に頼まれた御義理だとか、世間に好い評判を取りたいからの名誉づくなんかからでは迚も行れるもので無い。
 私どもは御承知の如く東北振興会なるものを組織し、東北振興の為に多少ながら微力を尽して居るが、五月(大正六年)一日より十五日まで三越呉服店の楼上に於て、之れも或は東北振興の一助にならうかといふので、益田孝氏の発意により、東北銘産陳列会を開き、東北六県の銘産を東京人士に紹介し、且つ陳列品の即売を試みたところ、非常なる好成績を収め得たので、私共も大に悦んでたところへ、この陳列会が閉会になつてから間も無く、米沢に彼の大火があつた。そこで東北銘産陳列会を発意した益田氏は、この際東北振興会ともあらうものが、米沢の大火を聞いて其儘ボンヤリして居るわけにもゆくまい、何んとか見舞金でも集めて贈るやうにしたいものであるとの事で、同氏が九州へ旅行する前その旨私に言ひ残して出発したものだから、私も至極結構な事であると思ひ、見舞の寄附金募集を始めようと思つてる矢先、平田東助子の主宰する米沢人の団体たる有為会から東北振興会に向つて助力を請うて来たのである。
 有為会は平田子が会長で、米沢と米沢人との発展に力を注いで居る米沢人の団体であるが、同会だけで寄附金を集めようとしても巨額に達し得る見込は覚束無いから、東北振興会でも一つ骨を折つてみてもらひたいといふのであつた。この件に就ては、吉池氏が種々尽力奔走して居られたが、私は益田氏が私へ言ひ遺して出発したこともあるので有為会よりの申込に応じ、東北振興会でも米沢大火の見舞金を募集し之を纏めて有為会に渡す事にしたのである。私は当初、東北振興会員よりの寄附額は総計で三千円見当にしか上るまいと思つてたのだが案ずるより産むが易く、実際募集に着手してみると、三井、岩崎両家の各三千円づつを別口として、猶ほ、約一万円の金額が寄つたのである。私は意外なる斯の好成績を非常に楽しく感じて居るが、斯う寄附金の成績が佳良であると楽しく感ずるものは、私一人のみで無い。東北振興会に助力を申込んで来た有為会の人々も楽しく感じ、米沢人は素より楽しく感ずるに相違無いが、寄附金をした東北振興会員とても亦、楽しく感ずるわけになり、之を発意した益田氏とても定めし満足せらるる事だらうと思ふ。一人の人の楽みは決して其人一人限りに止まるものでは無い。広く他にも及ぶものだ。
 それから私の郷里の埼玉県の或る寒村で、浮浪少年の教養に骨を折つてる奇特な人物がある。居村の有志者が力を添へて費用を出してくれるやうになつた為、この五六年来は十五六人の少年を収容して居るさうだが、居村の者の寄附だけでは思ふやうな発展ができぬとの事だから、私の王子の自邸で開いた埼玉県人会の席上で、埼玉県人から三千円ばかり寄附金を斯の事業の為に寄せ集めてやる事にした。斯んな仕事なぞも、畢竟、私が之を楽むからできることで、ただ御義理一遍からでは迚もできるもので無いのである。
子曰。中人以上。可以語上也。中人以下。不可以語上也。【雍也第六】
(子曰く、中人以上は、以て上を語るべきなり。中人以下は、以て上を語るべからざる也。)
 茲に掲げた章句の意味は、「民は由らしむべし、知らしむべからず」といふ語と略〻同じであるが、この「民は由らしむべし、知らしむべからず」の語の意味が、一般に甚しく誤解せられて居るかの如く私には思はれるのである。「知らしむべからず」といふのは、決して「知らしてはならぬものだ」といふ如き禁止的の意義を元来含んで居つたものでは無い。「民は多人数のこと故、迚も之に一々事理を説明して聞かせるわけにはゆくもので無いから、まアまア頼らしむるやうにするより他に方法が無いものである」といふのが「民は由らしむべし、知らしむべからず」の真意であらうと私は思ふのである。茲に掲げた章句のうちの「中人以下は以て上を語るべからず」といふのも之と同じ意味で、或る学者の説の如く、孔夫子が人間を上中下の三段に分ち中以下の者へは中以上の者に語り聞かせるやうな事を語り聞かしてはならぬぞよ、といふ如き、禁止的性質を帯びた教訓で無く、単に教育のある者に聞かせるやうなことを、無教育の者に説き聞かせても、労して功の無いもの故、何事も人見て法を説くやうに致すが可い、といふ丈けの意味に過ぎぬものであらうと私には思はれる。
 元来、孔夫子は、病を診てから之に相応する薬を投ずるといふ主義であつたから、畢竟斯る御教訓を垂れられるやうなことにもなつたものだらう。人間の上中下は暫く別として、感冒に罹つたものに糖尿病の薬を飲ましたところで何の効果も無く、却て害になるばかりだ。恰度それと同じやうに、或る流義の者へ他流の話を語り聞かせたところで決して解るもので無い。却て徒に誤解を深うさせるのみである。昔から、大声は俚耳に入らずといふ語もあるが、六ケしい事の解る頭の無い者へは、六ケしい理窟を語り聞かせるよりも、「斯くせよ」と言ひ付けて之を実行させる方が遥にマシである。六ケしい理窟を滔々と語り聞かしたところで、迚も解るものでは無いからだ。豚に真珠を投げてやつたところで、何の役に立つものでも無いのである。
 徳川慶喜公が、伏見鳥羽で幕府が官軍を敵にして戦つてる最中に大阪から軍艦で江戸へ御廻りになり、上野の山内へ籠つて恭順の意を表せられたのは実に突然のことで、幕軍の者どもも、之には驚かされたのであるが、慶喜公は其際自身のとつた態度に就て、その理由をクドクドと説明せらるるやうな事をせられなかつたのである。為に幕軍の者共は公の御意を解する事ができず、其後もいろいろと穏かならぬ挙動に出でたのであるが、あの際に慶喜公が恭順の態度を取られるに至つた事に就ての真意を、一般幕軍の者共へ御語りにならなかつたのは当時幕軍の者共へ御真意を御話しになつても到底諒解せられず、誤解を招くばかりだと思はれたのにも因るだらうが、必ずしも中人以下には以て上を語るべからずとせられた為では無からうと思ふのである。
 慶喜公は一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何んと謂はうが、他人が何と非難をしようが、そんな事には一向頓着せられなかつたものである。之が、恭順の真意を幕軍の者共へ打ち明けて御話しにならず、突然大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せらるるに至つた所以であるだらうと思ふ。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、知る人は知つてくれるからといふ態度に出られる方であつたのである。
 私は孰方かと言へば胸に思つてる丈けの事は、総てみな誰へでも言つてしまふ方の性質である。胸の中にある事を言つてしまひさへすれば、私は何時でも快い心情になる。思つてる丈けを言つてしまはぬと何んとなく奥歯に異物が挟まつてるやうで、誠に心情が悪い。私が斯く思つたままを打ち明けて話してしまふのを、やれ世間では渋沢の長談義だとか、或は又、渋沢は愚痴を並べる男だとかと評して居るかも知れず、又実際、私の愚痴であるにも相違無いが、私としては思つてる丈けを話してしまへば兎に角常に心情が快いのである。
 かく私は、何でも思つてる丈けを皆言つてしまふのを大体の方針にして居るとはいふものの、多人数寄り集つてる場所で話す場合と、個人と膝を突き合して話す場合との間には自づと差別を設けて居る。多人数寄り集つてる場所では、同じ事を聴いても解る人と解らぬ人とが居るものだ。そんな時には誰が聞いても解る事だけを話すやうにして居る。それから、如何に私が思つて居つても之を私が話せば第三者が迷惑を蒙る如き事情のある事は、やはり之を話さぬやうにして居る。
 又、理論の余り徹底し過ぎた事は、之を其儘他人に談れば、却て智慮の乏しい者を惑はす場合もあるものだ。余り徹底した話をして聞かした為に不結果を生じ、あんな事は知らさなかつた方が可かつたにと後悔する場合を今日でも私は往々なほ経験する事が無いでも無い。談話は対手を見て加減せねばならぬものである。孔夫子は流石にエライ方で、同じ仁でも其対手方の如何により様々に説かれ、大きくもなり小さくもなつて居る。
子曰。知者楽水。仁者楽山。知者動。仁者静。知者楽。仁者寿。【雍也第六】
(子曰く、知者は水を楽み、仁者は山を楽み、知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽み、仁者は寿長し。)
 茲に掲げた章句は、孔夫子が仁者と知者とにある特色を夫々挙げて之を説き示されたもので、知者は必ず常に動いて水を楽むもの、仁者は必ず常に静かにして山を楽むものと、字句の末にばかり拘泥して稽へては、却て孔夫子の御真意が解ら無くなつてしまふ恐れがある。如何に知者だからとて動いてばかり居るものでは無く、真の知者には動中自ら静がある。如何に仁者だからとて又静かにしてばかり居るものとは限らず、真の仁者には静中自ら動のあるものだ。ただ、外間の者が之を観て評すれば「あの男は沈厚な処は無いが、機敏だから知者であらう」とか、「斯の男は何をさせても遅鈍いが、沈厚なところがあるから仁者だらう」といふ事になつて、仁者と知者との別が人の目に触るることとなるだけのものである。人には生れついて知者と仁者との別があるのでも何んでも無い。
 理想的に謂へば、人は絶えず動いてばかりゐて水のみを楽む知者となつても可けず、又絶えず静かにしてばかり居つて山のみを楽む仁者になつても可けず、沈厚にして機敏、機敏にして沈厚、よく静と動とを兼ね、水も山も共に併せ楽む者とならねばならぬのであるが、私の如き薄徳菲才の者は、到底一身で静と動とを兼ね、山と水とを併せ楽むといふまでになれぬのである。然し、兎に角主義として私は山よりも水を楽むとか、或は水よりも山を楽むとかいふやうに、一方に偏する者とならず、山をも水をも、水をも山をも併せ楽む事にして居る。
 一体私には、世間の皆様の如く、山に遊びたいとか水に遊びたいとかいふ如き、山水に対する執着心が無い。山も結構、水も結構であるが、如何に山水に遊んだからとて、そんな事は私に取つて大した楽みでは無いのである。私が真に楽しく感ずるのは、論語の話でもするとか或は養育院其他の公共事業の為に奔走するとかいふ事である。これが私に取つて何よりの楽みだ。私も時に避暑とか避寒とかに出かけぬでも無いが、楽しいから出かけるのでは決して無い。一寸納涼みに出かけるか暖炉にあたるぐらゐの積で出かけるのである。何処其処の景色が甚く気に入つたからとて始終其の処に遊びに出かけるといふやうな事は致さぬ。ただ一度行つたことのある場所は何かにつけて便利だから又重ねて出かけるといふに過ぎぬのである。私は今日まで遊んで生活したといふ事は殆ど無い積であるが、如何に老齢になつたからとて、今後もなほ遊んで楽むといふやうな事は絶対致さぬ覚悟である。私は飽くまでも享楽主義を排斥するものだ。
 私だからとて、美しい風景を観れば美しいと思はぬでは無い。猶且衆人と等しく美しいと感ずるに相違無く、瀬戸内海の景色だとか、耶馬渓の風光だとか、備後鞆津の仙酔島の景色だとか、それから又三保の松原の景色なぞも随分美しいとは思ふが、何うも是等の景色は局面が小さくつて、コセコセしてるやうに感ぜられてならぬのだ。是等の景色よりは、寧ろ薩陲峠から富士山を望んだ景色の方を、私は遥に好むのである。然し、従来接した景色のうちで、私が最も其の雄大なるに打たれたのは、北海道の石狩と十勝との境界にある狩勝峠から見下した十勝平原の風光である。実に雄大なもので、コセコセしたところが無く、一寸見た丈けでは米国あたりの大陸にある風景の如く思はれ日本の景色だとは思へぬほどだ。私は、鞆津の仙酔島の景色や耶馬渓の景色などよりも、孰方かと謂へば十勝平原の如き大陸的の風光を好むものである。
 然し、そんな風景を観ることよりも更に私が楽しく感ずるのは、慈善事業なぞの為に尽す事で、六月七日(大正六年)にも東京市養育院の安房分院落成式に臨み、北条で一泊して来たが、却々楽しかつた。同分院は北条の近くの船形といふ処へ今回新築されたものである。先年来、養育院に収容した児童のうちで体質の弱い者を同地に送つて静養さすることにしたところが、成績頗る良好で、同地の気候は大層病児の健康を増進するに効果があるやうだからといふので、分院を同地に新設し、養育院に来る児童のうちで体質の弱い者は総て同分院に収容する事にしたのだ。
 なほ東京市養育院は、白河楽翁公の積み立てて置かれた七分金といふものを基礎にして其始め開設せらるる事になつたものであるから、東京の同院では毎年楽翁公の命日に祭典を執行する事にして居るので安房の分院に於ても落成式に私が臨んだ序でを以て、当日は楽翁公の祥月命日たる五月十三日が既に過ぎてしまつて居つたにも拘らず、公の為に祭典を挙行したのである。
 楽翁公は、徳川時代の学問をした人に珍らしく道徳経済の一致を心懸け、之を実行せられた方である。兎角昔の漢学者なぞ申すものは、学問が出来て人物が堅くつても、物質上の知識に乏しく、致富の事なんか考へなかつたものだ。又、秀吉の如きは致富の知識はあつたが、道徳観念の乏しかつた人で、経済と道徳との一致した人は、寥々として暁天の星の如く、封建時代には甚だ稀であつたものだ。唯、徳川家康のみが、経済致富の知識もあり又、道徳観念の正確であつた人であるかの如くに思はれるが、家康とても秀吉の没後、大阪方に対して取つた所置は余り公明正大であるとは謂へぬ。幾分か道徳的で無い処がある。然し楽翁公に至つては、徹頭徹尾経済と道徳とを一致さして、之を実行せられた方である。
 徳川幕府の天下も三代将軍家光までは実に能く治まつたものであるが、五代将軍綱吉の代になつてから柳沢吉保が現れて乱機を作りそろそろ乱れかけて来たところを、八代将軍の吉宗が明君であつたものだから、彼の享保の大改革を断行し、漸く五代将軍以来の弊政を一掃し先づ是れで一ト安堵と思つてる処へ、又ぞろ十代将軍家治の代になつて田沼玄蕃頭が現れて政治を壟断し専横を極むるに至つたので、幕府の親藩たる御三家に於て評議の上、水戸の治保公(文公)の推挙により、奥州白河の小藩主たる身を以てして楽翁公が、田沼玄蕃頭の罷免せられた跡へ現れ幕府の老中となり、改革に着手せられたのである。時に天明六年八月――その翌年六月には老中首席となられ、自分と妻子の身命までも天地神明に献げ、私かに本所吉祥院の歓喜天に起誓文を奉られて幕府の弊政改革に当るべく決心せられたが、さて実際に当つて見ると思ふやうに我が意が行はれず、殊に十一代将軍家斉は多才の人であつたので、寛政五年には、遂に引退せられてしまつたのである。楽翁公の引退と共に曩に罷免になつた水野出羽守が寛政八年に再び挙げられて出仕し、老中筆頭となつたのだが、この水野は田沼玄蕃頭の股肱で驕奢に耽つた人だといふから、当時楽翁公は、定めし徳川幕府の末路を想うて、寒心を禁じ得られなかつた事だらうと思ふのである。
 楽翁公は、幼年より非凡の才を顕はされた方で、六歳にして既に詩を賦し、十三歳の頃には「自教鑑」と題する修身及び学問上の書を著して居らるるほどだが、若いうちは却〻短気で、曾ては殿中に於て田沼玄蕃頭を刺さうとせられた事のあつたほどだ。然し、天明六年三十歳で田沼の横暴を制するには楽翁公以外に其人無しとの見地から老中に挙げられた頃に及んでは、壮年時代の短気なところも失せて智慮も頗る周到になつて居られたものらしく思はれる。為に道徳経済の一致に意を注がるるに至つたのだらうが、七分金の積み立ても、道徳経済一致の趣旨から実行せられたのである。
 この七分金といふのは、楽翁公が町方に諭して精々倹約を致させ、それで残した金額のうちから、三分を割いて町費の補助と取扱人の賞与とに充て、残額七分を積立金にして利殖さして置いた金で、維新後は東京市の共有金として引継がれ、明治七年大久保一翁氏が東京府知事であつた時代に、私が其七分金の支配方を申付けられたのである。金額は初め百万円以上もあつたのだが、其うちから市内に於ける道路橋梁等の改修に支出したりなどして、私が其支配を申付けられた時には五十万円ばかりに減じて居つたのだ。然し、現金にして置けば何んとか彼んとか口実を設けて市が使つてしまふやうになり楽翁公折角の素志も空しくなるだらうと思つたので、私は外数名の者とも協議の上その残金約五十万円ばかりの積立金を以て土地を買つたのだが、後日に至りこの土地を売り払ひ六七十万円を得たかのやうに記憶するのである。明治五年初めて上野で東京市内にある窮民を集めて救助した時にはこの七分金を使つたもので、それが今日の東京市養育院の起原となつて居る。
 東京養育院が、毎年五月十三日の祥月命日に白河楽翁公の祭典を執行するのは、養育院と楽翁公の積立てて置かれた七分金との間に斯る関係があるからで、公は勤倹貯蓄を奨励し、御自身の品行も至つて善く、自ら奉ずること薄くして節倹を旨とし、奥方は美人であらせられたが、余り賢夫人と謂へぬ方であつたにも拘らず、それ之に対して充分親切な待遇を与へて居られたほどの御仁である。
 頼山陽が「日本外史」を著した事を聞かるるや、楽翁公は江馬蘭斎を介してその稿本を取寄せられ、一読されてから山陽と共鳴せらるるところのあつたものか、山陽に対しては頗る念の入つた御手厚い待遇を与へられて居る。之が山陽をして「日本外史」の巻頭に宋の蘇轍が時の宰相韓魏公に上つた上書に慣つて、楽翁公に上る書を書かしむるに至つた所以であるが、楽翁公は幕府の政治向きから引退して後も始終徳川家の将来の事が気に懸り、十一代将軍の驕奢が必ずや幕府の末を早むるに至るだらうと心配して居られたところへ、頼山陽は文恭院家斉公の代で「日本外史」の筆を擱き「武門天下を平治する、是に至つて其の盛を極む」と結び、恰も盛んなる徳川の天下が何れの日にか衰ふる日あるべきを暗示するものの如くであつたので、楽翁公は山陽と感慨を同うし共鳴せらるるところがあつたものの如くに思はれる。
 船形の養育院分院では、私が其の落成式に臨んだ機会を利用し、楽翁公の祭典を執行すると共に、猶ほ安房分院設置の由来を書いて、東京湾の海面に臨んだ崖の天然石に彫りつけた大きな石誌の除幕式の如きものをも挙行した。
 この石碑は、海に面した大きな天然石を削つて竪三十尺、横幅二十七尺の処を五寸ばかりの深さに切取つて滑沢の面を作り、之に三島毅博士に依嘱して作つて戴いた安房分院設置の由来を記した二百七十五字の漢文を彫りつけたものであるから、一見したところ額面の如くになつて見えるのだ。文字は私が自身で書いたのであるが、何んに致せ五間に四間ばかりの処へ二百七十五字だけ書かうといふのだから一字が一尺五寸平方ばかりの大字になつて居る。私は一枚の紙に一字づつ斯の大きな字を書したのだが、それを寄せて石に貼りつけ、その上から陰刻にして彫つたのだ。
 こんな風の天然石石誌は、朝鮮などに行くと大同江の沿岸平壌の辺などで往々見当るが、道台の頌徳表のやうなものを彫りつけてある。又、我が邦でも笠置山などには大きな天然石に仏像を陰刻にして彫りつけたものがある。然し、海面から吹いて来る潮風は石質を腐蝕する力があるものださうで、私が今度書いて彫りつけた東京市養育院安房分院設置の由来を記した天然石の石誌も、四五百年のうちには磨滅してしまふやうな憂ひも無からうが、永いうちには磨滅するだらうとの事で、潮風の作用する破壊を防ぐため、何か薬剤を石誌の面へ塗るやうにしたらよからうと研究して下されつつある人もある。それから、如何に一尺五寸平方の大きな字でも、遠方からでは見えぬからといふので、文字に緑青か何かの色を塗ることにしたら可からうとの説を唱へる人もあるが、そんな事をすれば余り俗つぽくなつて見えるだらうと云ふ意見もあつて、差控へて居る。三島博士が撰まれて私の書した其の石誌の全文は左の通りである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)