8. 予の好む十勝平原
よのこのむとかちへいげん
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然し、そんな風景を観ることよりも更に私が楽しく感ずるのは、慈善事業なぞの為に尽す事で、六月七日(大正六年)にも東京市養育院の安房分院落成式に臨み、北条で一泊して来たが、却々楽しかつた。同分院は北条の近くの船形といふ処へ今回新築されたものである。先年来、養育院に収容した児童のうちで体質の弱い者を同地に送つて静養さすることにしたところが、成績頗る良好で、同地の気候は大層病児の健康を増進するに効果があるやうだからといふので、分院を同地に新設し、養育院に来る児童のうちで体質の弱い者は総て同分院に収容する事にしたのだ。
なほ東京市養育院は、白河楽翁公の積み立てて置かれた七分金といふものを基礎にして其始め開設せらるる事になつたものであるから、東京の同院では毎年楽翁公の命日に祭典を執行する事にして居るので安房の分院に於ても落成式に私が臨んだ序でを以て、当日は楽翁公の祥月命日たる五月十三日が既に過ぎてしまつて居つたにも拘らず、公の為に祭典を挙行したのである。
楽翁公は、徳川時代の学問をした人に珍らしく道徳経済の一致を心懸け、之を実行せられた方である。兎角昔の漢学者なぞ申すものは、学問が出来て人物が堅くつても、物質上の知識に乏しく、致富の事なんか考へなかつたものだ。又、秀吉の如きは致富の知識はあつたが、道徳観念の乏しかつた人で、経済と道徳との一致した人は、寥々として暁天の星の如く、封建時代には甚だ稀であつたものだ。唯、徳川家康のみが、経済致富の知識もあり又、道徳観念の正確であつた人であるかの如くに思はれるが、家康とても秀吉の没後、大阪方に対して取つた所置は余り公明正大であるとは謂へぬ。幾分か道徳的で無い処がある。然し楽翁公に至つては、徹頭徹尾経済と道徳とを一致さして、之を実行せられた方である。
- デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)