デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一

6. 私は思ふ丈けを言ふ

わたしはおもうだけをいう

(29)-6

 私は孰方かと言へば胸に思つてる丈けの事は、総てみな誰へでも言つてしまふ方の性質である。胸の中にある事を言つてしまひさへすれば、私は何時でも快い心情になる。思つてる丈けを言つてしまはぬと何んとなく奥歯に異物が挟まつてるやうで、誠に心情が悪い。私が斯く思つたままを打ち明けて話してしまふのを、やれ世間では渋沢の長談義だとか、或は又、渋沢は愚痴を並べる男だとかと評して居るかも知れず、又実際、私の愚痴であるにも相違無いが、私としては思つてる丈けを話してしまへば兎に角常に心情が快いのである。
 かく私は、何でも思つてる丈けを皆言つてしまふのを大体の方針にして居るとはいふものの、多人数寄り集つてる場所で話す場合と、個人と膝を突き合して話す場合との間には自づと差別を設けて居る。多人数寄り集つてる場所では、同じ事を聴いても解る人と解らぬ人とが居るものだ。そんな時には誰が聞いても解る事だけを話すやうにして居る。それから、如何に私が思つて居つても之を私が話せば第三者が迷惑を蒙る如き事情のある事は、やはり之を話さぬやうにして居る。
 又、理論の余り徹底し過ぎた事は、之を其儘他人に談れば、却て智慮の乏しい者を惑はす場合もあるものだ。余り徹底した話をして聞かした為に不結果を生じ、あんな事は知らさなかつた方が可かつたにと後悔する場合を今日でも私は往々なほ経験する事が無いでも無い。談話は対手を見て加減せねばならぬものである。孔夫子は流石にエライ方で、同じ仁でも其対手方の如何により様々に説かれ、大きくもなり小さくもなつて居る。

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キーワード
渋沢栄一, 思ふ, 言ふ
デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)