デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一

4. 「由らしむべし」の真意

よらしむべしのしんい

(29)-4

子曰。中人以上。可以語上也。中人以下。不可以語上也。【雍也第六】
(子曰く、中人以上は、以て上を語るべきなり。中人以下は、以て上を語るべからざる也。)
 茲に掲げた章句の意味は、「民は由らしむべし、知らしむべからず」といふ語と略〻同じであるが、この「民は由らしむべし、知らしむべからず」の語の意味が、一般に甚しく誤解せられて居るかの如く私には思はれるのである。「知らしむべからず」といふのは、決して「知らしてはならぬものだ」といふ如き禁止的の意義を元来含んで居つたものでは無い。「民は多人数のこと故、迚も之に一々事理を説明して聞かせるわけにはゆくもので無いから、まアまア頼らしむるやうにするより他に方法が無いものである」といふのが「民は由らしむべし、知らしむべからず」の真意であらうと私は思ふのである。茲に掲げた章句のうちの「中人以下は以て上を語るべからず」といふのも之と同じ意味で、或る学者の説の如く、孔夫子が人間を上中下の三段に分ち中以下の者へは中以上の者に語り聞かせるやうな事を語り聞かしてはならぬぞよ、といふ如き、禁止的性質を帯びた教訓で無く、単に教育のある者に聞かせるやうなことを、無教育の者に説き聞かせても、労して功の無いもの故、何事も人見て法を説くやうに致すが可い、といふ丈けの意味に過ぎぬものであらうと私には思はれる。
 元来、孔夫子は、病を診てから之に相応する薬を投ずるといふ主義であつたから、畢竟斯る御教訓を垂れられるやうなことにもなつたものだらう。人間の上中下は暫く別として、感冒に罹つたものに糖尿病の薬を飲ましたところで何の効果も無く、却て害になるばかりだ。恰度それと同じやうに、或る流義の者へ他流の話を語り聞かせたところで決して解るもので無い。却て徒に誤解を深うさせるのみである。昔から、大声は俚耳に入らずといふ語もあるが、六ケしい事の解る頭の無い者へは、六ケしい理窟を語り聞かせるよりも、「斯くせよ」と言ひ付けて之を実行させる方が遥にマシである。六ケしい理窟を滔々と語り聞かしたところで、迚も解るものでは無いからだ。豚に真珠を投げてやつたところで、何の役に立つものでも無いのである。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)