9. 楽翁公の出所進退
らくおうこうのしゅっしょしんたい
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楽翁公は、幼年より非凡の才を顕はされた方で、六歳にして既に詩を賦し、十三歳の頃には「自教鑑」と題する修身及び学問上の書を著して居らるるほどだが、若いうちは却〻短気で、曾ては殿中に於て田沼玄蕃頭を刺さうとせられた事のあつたほどだ。然し、天明六年三十歳で田沼の横暴を制するには楽翁公以外に其人無しとの見地から老中に挙げられた頃に及んでは、壮年時代の短気なところも失せて智慮も頗る周到になつて居られたものらしく思はれる。為に道徳経済の一致に意を注がるるに至つたのだらうが、七分金の積み立ても、道徳経済一致の趣旨から実行せられたのである。
この七分金といふのは、楽翁公が町方に諭して精々倹約を致させ、それで残した金額のうちから、三分を割いて町費の補助と取扱人の賞与とに充て、残額七分を積立金にして利殖さして置いた金で、維新後は東京市の共有金として引継がれ、明治七年大久保一翁氏が東京府知事であつた時代に、私が其七分金の支配方を申付けられたのである。金額は初め百万円以上もあつたのだが、其うちから市内に於ける道路橋梁等の改修に支出したりなどして、私が其支配を申付けられた時には五十万円ばかりに減じて居つたのだ。然し、現金にして置けば何んとか彼んとか口実を設けて市が使つてしまふやうになり楽翁公折角の素志も空しくなるだらうと思つたので、私は外数名の者とも協議の上その残金約五十万円ばかりの積立金を以て土地を買つたのだが、後日に至りこの土地を売り払ひ六七十万円を得たかのやうに記憶するのである。明治五年初めて上野で東京市内にある窮民を集めて救助した時にはこの七分金を使つたもので、それが今日の東京市養育院の起原となつて居る。
- デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)