デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一

5. 慶喜公恭順の態度

けいきこうきょうじゅんのたいど

(29)-5

 徳川慶喜公が、伏見鳥羽で幕府が官軍を敵にして戦つてる最中に大阪から軍艦で江戸へ御廻りになり、上野の山内へ籠つて恭順の意を表せられたのは実に突然のことで、幕軍の者どもも、之には驚かされたのであるが、慶喜公は其際自身のとつた態度に就て、その理由をクドクドと説明せらるるやうな事をせられなかつたのである。為に幕軍の者共は公の御意を解する事ができず、其後もいろいろと穏かならぬ挙動に出でたのであるが、あの際に慶喜公が恭順の態度を取られるに至つた事に就ての真意を、一般幕軍の者共へ御語りにならなかつたのは当時幕軍の者共へ御真意を御話しになつても到底諒解せられず、誤解を招くばかりだと思はれたのにも因るだらうが、必ずしも中人以下には以て上を語るべからずとせられた為では無からうと思ふのである。
 慶喜公は一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何んと謂はうが、他人が何と非難をしようが、そんな事には一向頓着せられなかつたものである。之が、恭順の真意を幕軍の者共へ打ち明けて御話しにならず、突然大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せらるるに至つた所以であるだらうと思ふ。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、知る人は知つてくれるからといふ態度に出られる方であつたのである。

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キーワード
徳川慶喜, 恭順, 態度
デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)