デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一

7. 予は山水を楽みとせず

よはさんすいをたのしみとせず

(29)-7

子曰。知者楽水。仁者楽山。知者動。仁者静。知者楽。仁者寿。【雍也第六】
(子曰く、知者は水を楽み、仁者は山を楽み、知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽み、仁者は寿長し。)
 茲に掲げた章句は、孔夫子が仁者と知者とにある特色を夫々挙げて之を説き示されたもので、知者は必ず常に動いて水を楽むもの、仁者は必ず常に静かにして山を楽むものと、字句の末にばかり拘泥して稽へては、却て孔夫子の御真意が解ら無くなつてしまふ恐れがある。如何に知者だからとて動いてばかり居るものでは無く、真の知者には動中自ら静がある。如何に仁者だからとて又静かにしてばかり居るものとは限らず、真の仁者には静中自ら動のあるものだ。ただ、外間の者が之を観て評すれば「あの男は沈厚な処は無いが、機敏だから知者であらう」とか、「斯の男は何をさせても遅鈍いが、沈厚なところがあるから仁者だらう」といふ事になつて、仁者と知者との別が人の目に触るることとなるだけのものである。人には生れついて知者と仁者との別があるのでも何んでも無い。
 理想的に謂へば、人は絶えず動いてばかりゐて水のみを楽む知者となつても可けず、又絶えず静かにしてばかり居つて山のみを楽む仁者になつても可けず、沈厚にして機敏、機敏にして沈厚、よく静と動とを兼ね、水も山も共に併せ楽む者とならねばならぬのであるが、私の如き薄徳菲才の者は、到底一身で静と動とを兼ね、山と水とを併せ楽むといふまでになれぬのである。然し、兎に角主義として私は山よりも水を楽むとか、或は水よりも山を楽むとかいふやうに、一方に偏する者とならず、山をも水をも、水をも山をも併せ楽む事にして居る。
 一体私には、世間の皆様の如く、山に遊びたいとか水に遊びたいとかいふ如き、山水に対する執着心が無い。山も結構、水も結構であるが、如何に山水に遊んだからとて、そんな事は私に取つて大した楽みでは無いのである。私が真に楽しく感ずるのは、論語の話でもするとか或は養育院其他の公共事業の為に奔走するとかいふ事である。これが私に取つて何よりの楽みだ。私も時に避暑とか避寒とかに出かけぬでも無いが、楽しいから出かけるのでは決して無い。一寸納涼みに出かけるか暖炉にあたるぐらゐの積で出かけるのである。何処其処の景色が甚く気に入つたからとて始終其の処に遊びに出かけるといふやうな事は致さぬ。ただ一度行つたことのある場所は何かにつけて便利だから又重ねて出かけるといふに過ぎぬのである。私は今日まで遊んで生活したといふ事は殆ど無い積であるが、如何に老齢になつたからとて、今後もなほ遊んで楽むといふやうな事は絶対致さぬ覚悟である。私は飽くまでも享楽主義を排斥するものだ。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)