デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一

10. 楽翁公と頼山陽の交

らくおうこうとらいさんようのまじわり

(29)-10

 東京養育院が、毎年五月十三日の祥月命日に白河楽翁公の祭典を執行するのは、養育院と楽翁公の積立てて置かれた七分金との間に斯る関係があるからで、公は勤倹貯蓄を奨励し、御自身の品行も至つて善く、自ら奉ずること薄くして節倹を旨とし、奥方は美人であらせられたが、余り賢夫人と謂へぬ方であつたにも拘らず、それ之に対して充分親切な待遇を与へて居られたほどの御仁である。
 頼山陽が「日本外史」を著した事を聞かるるや、楽翁公は江馬蘭斎を介してその稿本を取寄せられ、一読されてから山陽と共鳴せらるるところのあつたものか、山陽に対しては頗る念の入つた御手厚い待遇を与へられて居る。之が山陽をして「日本外史」の巻頭に宋の蘇轍が時の宰相韓魏公に上つた上書に慣つて、楽翁公に上る書を書かしむるに至つた所以であるが、楽翁公は幕府の政治向きから引退して後も始終徳川家の将来の事が気に懸り、十一代将軍の驕奢が必ずや幕府の末を早むるに至るだらうと心配して居られたところへ、頼山陽は文恭院家斉公の代で「日本外史」の筆を擱き「武門天下を平治する、是に至つて其の盛を極む」と結び、恰も盛んなる徳川の天下が何れの日にか衰ふる日あるべきを暗示するものの如くであつたので、楽翁公は山陽と感慨を同うし共鳴せらるるところがあつたものの如くに思はれる。
 船形の養育院分院では、私が其の落成式に臨んだ機会を利用し、楽翁公の祭典を執行すると共に、猶ほ安房分院設置の由来を書いて、東京湾の海面に臨んだ崖の天然石に彫りつけた大きな石誌の除幕式の如きものをも挙行した。

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松平定信, 頼山陽,
デジタル版「実験論語処世談」(29) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.194-202
底本の記事タイトル:二四五 竜門雑誌 第三五三号 大正六年一〇月 : 実験論語処世談(二九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第353号(竜門社, 1917.10)
初出誌:『実業之世界』第14巻第14,15号(実業之世界社, 1917.07.15,08.01)