デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
子曰。斉一変。至於魯。魯一変。至於道。【雍也第六】
(子曰く、斉一変すれば魯に至り、魯一変すれば道に至らん。)
昔から「沙弥から長老にはなれぬ」といふ諺があるが、茲に掲げた章句は、即ち其意を孔夫子が談られたもので、一切世間何事にも順序のあることを教へられた教訓である。又、如何なる邦国でも、如何なる人間でも、進歩向上を怠りさへし無ければ、必ず道に合する邦国ともなり、人間ともなり得らるる事を教へた訓戒であると見做しても可い。孔夫子御在世の当時、斉は強い国であつたが、一般に功利主義が盛んで礼楽風教よりも功利を先にする傾向があつたものだ。又、魯は当時弱国ではあつたが、礼楽を貴び信義を重んずる風のあつたものである。斯く、斉と魯との間には国風の相違があるが、斉と雖も一たび改革を断行し、善政を施く事になれば、之を魯の如き国情の国とするのは決して難事で無い。又魯が更に一層奮起して先王の遺法を興し、法制を修め整ふるに至れば、之を理想の邦家たらしむるのも敢て難事で無いといふのが、この章句の意義である。(子曰く、斉一変すれば魯に至り、魯一変すれば道に至らん。)
如何にも孔夫子の仰せられた如く、斉一変すれば魯に至り、魯一変すれば道に至るのが世の中に於ける事物の推移変遷する順序で、斉から一足飛びに道に至るのは至難の業である。然し、これは普通一般の場合に就て言ふ事で、或る機運に遭遇すれば、必ずしも順序正しく一歩一歩進まずとも、一足飛びに斉から一変して直に道に至る如き場合を現出せぬとも限らず、斯る例は或は歴史上に、或は個人の事業の上に幾干でもある。欧洲戦争前まで借金で首の廻ら無かつた人が、欧洲戦争といふ千載一遇の好機運を迎へ、何々成金といふものになつたのも、少し行き方は違ふが猶且斉から一変して直に道に至つたやうなもので、沙弥が一躍長老になつたのも同じである。
明治維新の大改革なんかも、孰方かと謂へば斉一変して魯を通り越し直に道に至つた如き形容のものだ。古来の本邦歴史を按ずるに、我が国体にあつては、天朝を無みし奉る如き態度に出づる者が政権を壟断して居る際に、他の一方から天朝を戴いて天下に号令し其の政権を切り潰さうとする者が現るれば、必ず前者が倒れて後者の勝に帰することになつて居る。随つて、幕末時代に於けるが如く、幕府が天朝を尊重せずして勅命を矯め、皇室の御安泰は一に徳川幕府が天下の政権を握つて治平を図るの致すところである、天朝より彼是れ御指図を受くべき所因が無いと謂つたやうな、皇室の尊厳を意とせぬ如き不忠の態度に出でつつある時に当り、一方に於て薩州なり長州なり兎に角皇室を尊崇し、之を戴いて幕府に敵し、天下に号令する者が現はれて来れば、日本の国体上、徳川幕府の倒れるに至るのは当然の事である。
却説、孔夫子が何故茲に掲げた章句にある「斉一変すれば云々」の語を突如として発せられたものか、何か其処には仔細のある事で、必ずや孔夫子をして斯る語を発せしむるに至つた周囲の事情が存するだらうと思ふのである。之を知りたいといふのが、私のみならず論語の読者が一般に望むで処であらう。論語に載録せられた孔夫子の語はその種類が実に千差万別で、公冶長篇にある「道行はれず、桴に乗りて海に浮ばん」といふ如き嘆息的の句があるかと思へば、子罕篇にある「天の未だ斯の文を喪さざるや、匡人其れ予を如何せん」とか、述而篇にある「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」とかいふ如き感憤的の語もある。さうかと思へば又弟子等が色々と我が志を述べて居た際に、其うちの一人なる点が「莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、泝に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん」と語つたのを聞かれ、「吾は点に与みせん」(先進篇)と、意外の言を発せられたところには、何となく悟道的の面影なぞも窺はれ、禅家の所謂サトリめいた語をも時に発して居られる。孔夫子の語のうちには往々斯く悟道的のものが見出され、中庸にある「水なる哉、水なる哉」の句なぞは、芭蕉翁の「古池や蛙飛び込む水の音」の句と、好適対であると謂ひ得られぬでも無い。
九夷が果して日本であるや否やは暫く別問題として、何故孔夫子が突如として「九夷」の語を用ゐられたものか、其辺の事情を研究したら定めし面白くもあり、又利益でもあらうと思ふ。依て前条にも申述べて置いたことのある如く、論語中にある孔夫子の語を始めとし、大学、中庸等に孔夫子の語として引用せられてある章句一々に就て、這個は何時頃如何なる場合に臨んで発せられたものであるかといふ事を取調べ、之によつて孔子年譜の如きものを作る事に致したいと存じ、前条にも一寸申したことのあるやうに「論語年譜」の著者林泰輔博士に謀つたところが、それは必ずしも不可能では無いが、少くとも七年の星霜を要する上に、経費も一二万円は要るだらうとの事であつたのだ。論語にある章句の出典に就ては、既に亀井南冥の「論語語由」もある事だから、之に対し孔夫子の語と閲歴とを結びつけて研究したる書を編輯して置くことは必要であらうと思ふのである。又、「孔子家語」といふ書物もあつて、稍〻孔夫子の伝記を明かにして居るが、これは後世の偽作だとの説もある。これなぞも、研究して置く必要がある。
然し如何に私の欲する処であるからとて、之を大成する為に一二万円を費すほどの価値があるか何うかはなほ一考を要する点なので、私は目下のところ私一人で私費を投じ、之を完成するまでの決心が付かずに居る。或は同好の者が申合せて予約の如き組織によつて醵金し、林博士に依頼して完成してもらふ事にしたら何んなものだらうかとも思つて居る。
既う今(大正六年)より二十五年も前のことで、明治二十五年の十一月頃だつたやうに記憶するが、伊達伯が病気であらせられたので御見舞に出かけようと思ひ、午後三時頃、まだ自動車の無い時代だつたから自用の二頭立馬車を駆つて、兜町の事務所を出で、直ぐ前の兜橋を渡り江戸橋の通りと四日市町の通りとの交叉点の処へ来懸ると、突然物蔭から二人の暴漢が抜刀で現れ、馬車馬の足の払つた事がある。私は、何んだか馬車が一寸佇止つたやうに思つたのみで、刺客に襲はれたなぞとも心付かなかつたうちに、馭者が馬に鞭を当てて極力走らしたものだから一頭は毫も傷を受けず、傷つけられた一頭も亦能く一緒に走つたので難無く其場を脱し、一トまづ駿河町の三越呉服店――当時まだ、越後屋と称して居つた店舗に這入り、休息する事にしたのだ。
是より先数日来、馬車の馭者が、何うも近来は変だ、何者か私(渋沢)の身辺を狙つてる者があるらしいと私に注意し、又警視庁からも何うも私の身辺が近来危険のやうに思はれるから、護衛巡査を附けるやうにしたら宜からうと注意してくれたので、当時既に平服の護衛巡査が随き、人力車で馬車の後から護衛してくれて居つた事とて、暴漢が現れて抜刀で馬車馬の足を払ふや否や馬車を先に遣つて置いて、巡査は直ぐ人力車より降り、その場で暴漢二名を捕縛してしまつたのである。
世の中には、偶然な出来事といふものがあつて、屋根から突然落ちて来た瓦に当つて死ぬ者なぞもある。藤田東湖の如きは、地震の際落ちて来た梁に当つて死んでるでは無いか。如何に生きようとしても無い生命は結局無いものである。それが天命といふものだ。如何に殺さうと思つても、生きるべき筈の者ならばさう容易く殺されるものでは無い。匡人其れ予を如何にせん――桓魋其れ予を如何にせんである。私には斯の信念があつたから、斯んな騒ぎがあつても毫も恐るる処が無かつたのである。
この二人の暴漢は共に当時の所謂壮士で、石川県人千木喜十郎、板倉達吉の両人であつたが、当時喧しかつた東京市水道鉄管事件に関し私が外国製の使用を主張せるに対し、内国で之を製造し納入しようと企てた者があつて、其後聞知せる処に拠れば、この一派の人々は、恰も私が外国商人よりコムミッションでも取つて外国製の使用を主張するかの如く言ひ触らし、渋沢は売国奴であるからヤツツケロといふやうな過激の言を以て、千木、板倉の二人を煽動し、三十円宛を与へたとかで、その金銭の手前、二人は那的人嚇かしをしたものなさうである。
私が若し外国人よりコムミッションでも取る目的で斯んな意見を主張したものならば、確に私は売国奴であるに相違無いが、毫も爾んな事は無く、水道を一刻も早く完成させたいといふ無私の精神から之を主張したのだから、私としては些かたりとて疚しい処のあらう筈が無い。然し、若し愈々私の意見が通る事になれば、内国製を納入しようと目論んでゐたものは之が為儲からぬ事になる。その為、壮士を使嗾して私を嚇かしたものらしかつたのだ。
然し、刺客は裁判の結果、却〻重い刑に処せられ、謀殺未遂とか何んとか云ふ罪名で懲役十年を申渡されて入獄したのだが、在獄中能く獄則を守り、改悛の状顕著なりとあつて、五六年ばかりで仮出獄を許されたのである。出獄してから刺客の一人なる千木喜十郎は、或人の紹介で一夜私を兜町の事務所へ訪ねて来られた。紹介者よりは、千木も大に前非を後悔し、出獄後何かの業務に就かうとしても資金が無いので困つてるから、若干かの金銭を当人に与へてくれよとの意を私に通じて来て居つたので、当夜面会した節に若干金を贈る事にしたのである。その際、私は「不思議な因縁で貴下と相知るに至つたこと故、その縁故により、今回貴下が出獄後の処世に便する為、若干金だけを贈るが、これは今回一度だけの事で、今後は如何に御申入れがあつても二度と金銭は断じて差上げぬから、その辺の消息を予め能く承知して置いて貰ひたい」と申聞かせると、千木は贈与に対する礼を述べ、「さて、あの時の事は……」と、先年私を襲うた時の一部始終を語り出さうとしたから、私は其言を遮り、当時の事情を談らせぬやうにし「あの時の事は私が今聞いたからとて何の役にも立たず、又之を聞くのは私の甚だ不快とする処で、貴下とても亦之を御話になるのは不利益の事であり、徒に他人へ累を及ぼすに過ぎぬから、御話になるのを御止めになつたら可からう」と申述べ、当時の事情を千木の口から聞かぬやうにしたのであるが、其後も、千木は両三回私を訪ねて来たやうに記憶する。然し、昨今何う暮らして居らるるかは存ぜぬ。
孔夫子は平素至つて謙遜の方であつたが一たび何事にか当つて感憤せらるれば、意気昂然として天をも凌ぐ勢ひを示されたものである。「匡人其れ予を如何せん」とか、「桓魋其れ予を如何せん」とかいふ語句は即ち此の感憤の迸つたものだ。私なぞの到底孔夫子に及ばぬ事は今更ら改めて申すまでも無いが、如何に私だからとて、何時も謙遜ばかりして居るものとは限らぬ。一朝事に臨んで感憤すれば、昂然たる意気も亦自ら出て来るのである。私が暴漢に襲はれた際には、確に斯の意気があつたのだ。然し、斯る昂然たる意気は、内に省みて疚しからぬ確乎たる信念が無ければ迚も起らぬものである。
宰我問曰。仁者雖告之曰井有仁焉。其従之也。子曰。何為其然也。君子可逝也。不可陥也。可欺也。不可罔也。【雍也第六】
(宰我問うて曰く、仁者は之に告げて井に仁ありと曰ふと雖も、其れ之に従はんや。子曰く、何為れぞ其れ然らんや。君子は逝かしむべし、陥るべからず。欺くべし、罔《し》ふべからざるなり。)
茲に掲げた章句は、御弟子の宰我が、仁者といふものは、井戸の中へ落ちた人があるからと告げて来た者がある時に、直に之に応じて井戸の中へ下りて行つてその人を引揚げようとせらるるものだらうか、との奇問を発した際に与へられた孔夫子の御答であるが、孔夫子の御答の趣意は、如何に君子であつて仁を施すのを自分の職分として居る人でも、井戸の中へ這入つて溺れた人間と一緒になつてアブアブしたんでは、迚も其人を引揚げて救ひ出すわけにゆくもので無いといふ事を知つて居られるから、井戸へ落ちた者があると知らして来らるれば之を救ふ為に井戸の側まで行つて綱を下してやるとか竿を下してやるとかいふ事はするが、何の効も無いのに態々井戸の中へ這入り込んでゆくやうな馬鹿な真似は致さぬものだ――君子は総じて道理に随つて動くのが原則故、道を以てさへすれば欺き得られはしても、無道理な事を押しつけて之を行はせるわけにゆくもので無いといふにある。これが即ち「逝かしむべし、陥るべからず。欺くべし、罔ふべからざるなり」の意義である。(宰我問うて曰く、仁者は之に告げて井に仁ありと曰ふと雖も、其れ之に従はんや。子曰く、何為れぞ其れ然らんや。君子は逝かしむべし、陥るべからず。欺くべし、罔《し》ふべからざるなり。)
「昔者、生魚を鄭の子産に饋るものあり。子産、校人をして之を池に畜はしむ。校人、之を烹て反命して曰く、始め之を舎つや圉圉焉たり。少くありて則ち洋洋焉たり。悠然として逝く。子産曰く、其の所を得たる哉、其所を得たる哉」と。これは孟子万章の上篇にある章句だが、「校人」とは池沼を司る小役人の事で、子産は君子人であつたものだから、池沼の役人に、余所から贈られた生きた魚を池へ放して置くやうにと命じ、その命を受けた役人が魚を煮て食つてしまつて置きながら旨く其れを隠蔽し、嘘八百を並べ立て、魚を池に放した時の様を如何にも目のあたりに見るやうに「圉圉焉」だとか「洋洋焉」だとか「悠然」だとかいふ巧みな形容詞を使つて子産を瞞しにかかると子産は全く瞞されてしまつて、魚は池に生きて居るものとばかり思つてたといふ逸話を孟子が引用せられた句である。君子は総て正直なもので猜疑心なく、人を見れば直ぐ之を泥棒と思ふやうな事をせぬものであるから、道を以てさへすれば、斯く子産の如く容易に欺かれるのだ。
私は昨年(大正五年)七月以来、旧店を閉ぢてしまつて、生産殖利の事業と縁を絶ち、修身道徳の新店を開く事にしたので、生産殖利の事業に関する相談を受けて見たからとて如何とも致し方が無いのである。然し、既に閉ぢてしまつた旧店の方へは御客様があつて今以て繁昌するが、新店の方へは何うも御客が無い。甚だ以て不景気である。何うか新店を繁昌させたいものだと思つてるが繁昌しさうにも無い。唯僅に東京高等商業学校が最近に於て新店の商品を買つてくれる事になつたので、毎月一回づつ修身道徳上の講演をする為に出かけるぐらゐのものである。
然し又世間には心から論語に趣味を持つて、私の説く処に共鳴してくれる人が無いでも無い。先般も遥々米国から嵩山安綿といふ人が長文の手紙を贈つてくれた。この人は何んな御仁であるか、まだ能く調べも付かぬので其儘にして返事も出さずに置いてあるが、論語も精読して居られるらしく、殊に耶蘇教の教義に就ては精通して居らるるものと見え、手紙の文面の帰する処は、論語の説くところと耶蘇教の説く処とは、要するに同一だといふにある。
子曰。君子博学於文。約之以礼。亦可以弗畔矣夫。【雍也第六】
(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てす。亦以て畔《そむ》かざるべきか。)
茲に掲げた章句の結尾が「矣夫(か)」で結ばれ、其処に多少の疑を存して置き、断言になつて居らぬところが孔夫子が謙遜の御仁で、豪い優れた人物である証拠にもなる。そこにゆくと大隈侯なぞには、斯の謙遜の至徳といふものが無い。何事でも概ね憚らずして断言せられる。否、少しぐらゐ疑はしい事でもドシドシ断言せらるるのが大隈侯の癖である。之が常に累を成して、侯は彼是と喧しく世間から非難せらるるのだ。(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てす。亦以て畔《そむ》かざるべきか。)
兎角、人間といふものは如何に学問があつても、之を統ぶるに礼を以てしなければ、遂には道にも畔き、終を全うし得ざる人になつてしまふものである。博く文を学んでも之を約するに礼を以てせず、ただ物を知つてるといふ丈けで礼を弁へぬ人は、政治家のうちにも亦実業家のうちにも決して尠く無い。現に私が接する実業家のうちにも、爾んな人が随分ある。然し、現存の人に就て申述べる事は些か憚らねばならぬので茲には申上げぬが、学問ばかりあつて能く物を知つてても礼を弁へなかつた為に身を亡すに至つた人の適例は、佐賀の乱を起した江藤新平さんである。
江藤新平さんは実に何んでも能く物を識つてた方で、之には私も始終驚かされてばかり居つたものだ。江藤さんは「梧窓漫筆」の著者太田錦城の師に当る北山などに就て刑名学を学んだ刑名学者であつたので、礼のことなぞには一向頓着無く、如何に他人が迷惑をしようが一切拘はず、矢鱈に自分の無理を通さうとした人である。それが為には好んで三百理窟を捏ねくり廻したりなんかもしたものだ。遂にあんな最後を遂げられたのも之が原因であらうと思はれる。
菅原道真といふ御仁は、恰度江藤新平さんなんかの反対で、国学にも精通し、又漢籍にも造詣深く、当時日本には白楽天の詩が大層に流行した時代であつたものだから、白楽天風の詩文にも堪能であつた。博く文を学んで居られたにも拘らず之を約するに始終礼を以てせられたのである。如何に失意の位置に陥つても、天をも人をも憾みず、常に恭謙自ら持し、天朝に対して忠誠の心を欠かさず、かの人口に膾炙する「去年今夜侍清涼」の詩を作られたりなぞして居られる。又、太宰権帥に流されてから、九月十五日の月を眺めて詠まれた詩にもこんなのがある。
秋夜
黄萎顔色白霜頭。況復千余里外投。昔被栄華簪組縛。今為貶謫草萊囚。月光似鏡無明罪。風気如刀不破愁。随見随聞皆惨慄。此秋独作我身秋。
(黄萎の顔色、白霜の如き頭、況んや復た、千余里外に投ぜらるるをや。昔は栄華を被りて簪組に縛られしに、今は貶謫となりて草萊の囚れとなる。月光は鏡に似たれども、罪を明かにし難く、風気は刀の如くなれども愁を破らず。見るに随ひ聞くに随ひみな惨慄。此の秋は独り我が身の秋を作しぬ。)
黄萎顔色白霜頭。況復千余里外投。昔被栄華簪組縛。今為貶謫草萊囚。月光似鏡無明罪。風気如刀不破愁。随見随聞皆惨慄。此秋独作我身秋。
(黄萎の顔色、白霜の如き頭、況んや復た、千余里外に投ぜらるるをや。昔は栄華を被りて簪組に縛られしに、今は貶謫となりて草萊の囚れとなる。月光は鏡に似たれども、罪を明かにし難く、風気は刀の如くなれども愁を破らず。見るに随ひ聞くに随ひみな惨慄。此の秋は独り我が身の秋を作しぬ。)
霜満陣営秋気清。数行過雁月三更。越山併得能州景。遮莫家郷憶遠征。
(霜は陣営に満ちて秋気清し。数行の過雁、月三更。越山併せ得たり能州の景。さもあらばあれ、家郷の遠征を憶ふことを。)
これは、号を越山と称した上杉謙信の詩として有名なものであるが謙信は勇気絶倫、武略にも富んだ古今名将の一人なるに拘らず、斯く人口に膾炙して今日に遺るやうな詩を作り得たほどで、文事にも長け学問のあつた人だ。然し、漫りに武を誇つて驕る如き弊の無かつたと共に、又文事に長ぜるを鼻にかけて、他人を蔑視するやうな事も無かつたもので、不倶戴天の怨敵武田信玄の卒するを聞いてさへ、折柄食事中の箸を投げ、「信玄は年来の仇敵ではあるが、実に惜しい事をしたものだ。今、見渡したところ坂東に信玄がほどの英雄は無い。信玄が死んでしまへば坂東の弓矢は之によつて衰ふるに極まつたものだ」と嘆息し、ハラハラと熱い涙を流されたと伝へられて居るほどだ。謙信の如きも博く文を学び、之を約するに礼を以てした人であると謂へるだらう。(霜は陣営に満ちて秋気清し。数行の過雁、月三更。越山併せ得たり能州の景。さもあらばあれ、家郷の遠征を憶ふことを。)
謙信と信玄との相違は、その学んだところを礼を以て約したと約せぬとの相違である。曾て信玄が、今川、北条の両氏と隙を生じ、食塩の甲州に入る道を絶たれ、甲州の民が其為に大に苦しめられて居るのを聞くや、敵ながらも信玄に同情を寄せ、今川、北条両氏の所置を卑怯なりとし、甲州に贈るに塩を以てした一事なぞも、如何に謙信が礼に厚い人であつたかを談るものだ。又、永禄元年五月、信玄と謙信との間に和親の議が起り、筑摩川を隔てて両将相見ゆるの期に迨び、謙信が礼を重んじ、自ら先づ馬より降り、河の岸へ胡床を運んで会見しようとした際に、信玄は毫も礼を重んずる色無く「汝の態度は如何にも恭々しい、馬上から相語つても苦しからぬぞ」なんかと頗る驕慢の態度に出でて居る。信玄が、あれほどの智者であり英雄でもありながら其終を全うしなかつたのは、礼を以て其の平生を約する事を忘れてしまつてたからだ。之に反し、謙信は博く文を学び、之を約するに礼を以てして居つたものだから、畔かざる生涯を送り得たのである。
戦国時代の人では初めて羅馬法王庁に支倉六右衛門を使者として送つた独眼竜伊達政宗なども確に英雄の一人であるが、又博く文をも学んだ学問の深かつた人で、詩なぞも優れたものを作られて居るに拘らず、平素礼を重んじ、常に約するに礼を以てせられたものだ。これが政宗の豪いところである。如何なる英雄でも、如何なる学者でも約するに礼を以てしなかつた人で、其の終を全うした者は古来稀である。礼は殊に実業家に大切なものである。一会社一商店を統率する重要の位置にある者が、礼を忘れ礼を乱すやうでは迚も部下を統率してゆけるもので無いのである。部下の不埓なぞいふ事も、その根本に遡つてみれば、上に立つ者に礼を無みする風のあるのが原因になつてるのが決して尠く無い。上、礼を重んじ、下また礼を重んじ、其間に始めて統一ある運営が行はれてゆくやうになるものだ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)