デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一

11. 謙信と信玄と政宗

けんしんとしんげんとまさむね

(30)-11

霜満陣営秋気清。数行過雁月三更。越山併得能州景。遮莫家郷憶遠征。
(霜は陣営に満ちて秋気清し。数行の過雁、月三更。越山併せ得たり能州の景。さもあらばあれ、家郷の遠征を憶ふことを。)
 これは、号を越山と称した上杉謙信の詩として有名なものであるが謙信は勇気絶倫、武略にも富んだ古今名将の一人なるに拘らず、斯く人口に膾炙して今日に遺るやうな詩を作り得たほどで、文事にも長け学問のあつた人だ。然し、漫りに武を誇つて驕る如き弊の無かつたと共に、又文事に長ぜるを鼻にかけて、他人を蔑視するやうな事も無かつたもので、不倶戴天の怨敵武田信玄の卒するを聞いてさへ、折柄食事中の箸を投げ、「信玄は年来の仇敵ではあるが、実に惜しい事をしたものだ。今、見渡したところ坂東に信玄がほどの英雄は無い。信玄が死んでしまへば坂東の弓矢は之によつて衰ふるに極まつたものだ」と嘆息し、ハラハラと熱い涙を流されたと伝へられて居るほどだ。謙信の如きも博く文を学び、之を約するに礼を以てした人であると謂へるだらう。
 謙信と信玄との相違は、その学んだところを礼を以て約したと約せぬとの相違である。曾て信玄が、今川、北条の両氏と隙を生じ、食塩の甲州に入る道を絶たれ、甲州の民が其為に大に苦しめられて居るのを聞くや、敵ながらも信玄に同情を寄せ、今川、北条両氏の所置を卑怯なりとし、甲州に贈るに塩を以てした一事なぞも、如何に謙信が礼に厚い人であつたかを談るものだ。又、永禄元年五月、信玄と謙信との間に和親の議が起り、筑摩川を隔てて両将相見ゆるの期に迨び、謙信が礼を重んじ、自ら先づ馬より降り、河の岸へ胡床を運んで会見しようとした際に、信玄は毫も礼を重んずる色無く「汝の態度は如何にも恭々しい、馬上から相語つても苦しからぬぞ」なんかと頗る驕慢の態度に出でて居る。信玄が、あれほどの智者であり英雄でもありながら其終を全うしなかつたのは、礼を以て其の平生を約する事を忘れてしまつてたからだ。之に反し、謙信は博く文を学び、之を約するに礼を以てして居つたものだから、畔かざる生涯を送り得たのである。
 戦国時代の人では初めて羅馬法王庁に支倉六右衛門を使者として送つた独眼竜伊達政宗なども確に英雄の一人であるが、又博く文をも学んだ学問の深かつた人で、詩なぞも優れたものを作られて居るに拘らず、平素礼を重んじ、常に約するに礼を以てせられたものだ。これが政宗の豪いところである。如何なる英雄でも、如何なる学者でも約するに礼を以てしなかつた人で、其の終を全うした者は古来稀である。礼は殊に実業家に大切なものである。一会社一商店を統率する重要の位置にある者が、礼を忘れ礼を乱すやうでは迚も部下を統率してゆけるもので無いのである。部下の不埓なぞいふ事も、その根本に遡つてみれば、上に立つ者に礼を無みする風のあるのが原因になつてるのが決して尠く無い。上、礼を重んじ、下また礼を重んじ、其間に始めて統一ある運営が行はれてゆくやうになるものだ。

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デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)