デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一

5. 原因は水道鉄管事件

げんいんはすいどうてっかんじけん

(30)-5

 私は当時越後屋と称せられて居つた駿河町の三越呉服店に馬車をつけるや否や、降りて途中に起つた椿事に就ては何事も談らず、ただ伊達伯の病気見舞に出かけるところだが、一寸仔細あつて休息さしてもらひたいとだけ申し述べて店内に入り休憩したのだが、越後屋でも唐突の事なので何事が起つたのかと驚いて居るうち、何処からとも無く途中の椿事が伝つて、続々見舞の人が越後屋に押し寄せて来たので、同店でも始めて其れと知つたほどである。さてその日は伊達伯への見舞も見合せ、愈〻帰らうといふ段になると、帰途も危険だから是非護衛しようといふものもあつたが、刺客にして真に私を斬り殺さうといふ意ならば、直に私へ斬つて懸るべき筈のもので、馬の足を払ふ如き廻りクドイ手段を取らう筈なく、又同勢二人抜身を手にして居りながら何の抵抗もせずムザムザ一人の護衛巡査ぐらゐに捕縛されてしまふわけも無く、察するに壮士が若干かの金銭を与へられて渋沢は怪しからん奴だから斬つてしまへとか何んとか煽動され、貰つた金銭の手前放置つてもおけず馬車馬の足を払つたに過ぎぬのだらうから、帰途に又危険なぞのあるべき筈は無いと、いろいろ親切に言うてくれた人々の好意を強ひて謝し、護衛なぞ附けずに帰宅したのだが、果して私の考へた通り何事も無く無事で宅まで帰つたのである。然し、この時に私が斯く敢然たる態度に出で、毫も恐るる処の無かつたのは、自ら省みても些か疚しい処が無かつたからである。
 世の中には、偶然な出来事といふものがあつて、屋根から突然落ちて来た瓦に当つて死ぬ者なぞもある。藤田東湖の如きは、地震の際落ちて来た梁に当つて死んでるでは無いか。如何に生きようとしても無い生命は結局無いものである。それが天命といふものだ。如何に殺さうと思つても、生きるべき筈の者ならばさう容易く殺されるものでは無い。匡人其れ予を如何にせん――桓魋其れ予を如何にせんである。私には斯の信念があつたから、斯んな騒ぎがあつても毫も恐るる処が無かつたのである。
 この二人の暴漢は共に当時の所謂壮士で、石川県人千木喜十郎、板倉達吉の両人であつたが、当時喧しかつた東京市水道鉄管事件に関し私が外国製の使用を主張せるに対し、内国で之を製造し納入しようと企てた者があつて、其後聞知せる処に拠れば、この一派の人々は、恰も私が外国商人よりコムミッションでも取つて外国製の使用を主張するかの如く言ひ触らし、渋沢は売国奴であるからヤツツケロといふやうな過激の言を以て、千木、板倉の二人を煽動し、三十円宛を与へたとかで、その金銭の手前、二人は那的人嚇かしをしたものなさうである。

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原因, 水道鉄管事件
デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)