デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一

10. 江藤新平の亡びし所以

えとうしんぺいのほろびしゆえん

(30)-10

子曰。君子博学於文。約之以礼。亦可以弗畔矣夫。【雍也第六】
(子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てす。亦以て畔《そむ》かざるべきか。)
 茲に掲げた章句の結尾が「矣夫(か)」で結ばれ、其処に多少の疑を存して置き、断言になつて居らぬところが孔夫子が謙遜の御仁で、豪い優れた人物である証拠にもなる。そこにゆくと大隈侯なぞには、斯の謙遜の至徳といふものが無い。何事でも概ね憚らずして断言せられる。否、少しぐらゐ疑はしい事でもドシドシ断言せらるるのが大隈侯の癖である。之が常に累を成して、侯は彼是と喧しく世間から非難せらるるのだ。
 兎角、人間といふものは如何に学問があつても、之を統ぶるに礼を以てしなければ、遂には道にも畔き、終を全うし得ざる人になつてしまふものである。博く文を学んでも之を約するに礼を以てせず、ただ物を知つてるといふ丈けで礼を弁へぬ人は、政治家のうちにも亦実業家のうちにも決して尠く無い。現に私が接する実業家のうちにも、爾んな人が随分ある。然し、現存の人に就て申述べる事は些か憚らねばならぬので茲には申上げぬが、学問ばかりあつて能く物を知つてても礼を弁へなかつた為に身を亡すに至つた人の適例は、佐賀の乱を起した江藤新平さんである。
 江藤新平さんは実に何んでも能く物を識つてた方で、之には私も始終驚かされてばかり居つたものだ。江藤さんは「梧窓漫筆」の著者太田錦城の師に当る北山などに就て刑名学を学んだ刑名学者であつたので、礼のことなぞには一向頓着無く、如何に他人が迷惑をしようが一切拘はず、矢鱈に自分の無理を通さうとした人である。それが為には好んで三百理窟を捏ねくり廻したりなんかもしたものだ。遂にあんな最後を遂げられたのも之が原因であらうと思はれる。
 菅原道真といふ御仁は、恰度江藤新平さんなんかの反対で、国学にも精通し、又漢籍にも造詣深く、当時日本には白楽天の詩が大層に流行した時代であつたものだから、白楽天風の詩文にも堪能であつた。博く文を学んで居られたにも拘らず之を約するに始終礼を以てせられたのである。如何に失意の位置に陥つても、天をも人をも憾みず、常に恭謙自ら持し、天朝に対して忠誠の心を欠かさず、かの人口に膾炙する「去年今夜侍清涼」の詩を作られたりなぞして居られる。又、太宰権帥に流されてから、九月十五日の月を眺めて詠まれた詩にもこんなのがある。
    秋夜
黄萎顔色白霜頭。況復千余里外投。昔被栄華簪組縛。今為貶謫草萊囚。月光似鏡無明罪。風気如刀不破愁。随見随聞皆惨慄。此秋独作我身秋。
(黄萎の顔色、白霜の如き頭、況んや復た、千余里外に投ぜらるるをや。昔は栄華を被りて簪組に縛られしに、今は貶謫となりて草萊の囚れとなる。月光は鏡に似たれども、罪を明かにし難く、風気は刀の如くなれども愁を破らず。見るに随ひ聞くに随ひみな惨慄。此の秋は独り我が身の秋を作しぬ。)

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デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)