デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一

7. 刺客に金銭を贈る

せきかくにきんせんをおくる

(30)-7

 私が若し外国人から賄賂でも取つて、日本で製造し得らるべき水道鉄管を強ひて外国より輸入し、内国製の物を使用させぬ勘考でもしたといふのなら、如何に売国奴と罵られ、よし刺客に生命を取られたからとて申開きのできぬ次第であるが、私には素より爾んな後暗い事は毛頭無く、私が外国製の鉄管使用を主張した理由は頗る正々堂々たるものであつたから、刺客とても前に一寸申述べて置いた如く、真に私の生命を取つてやらうなどいふ気は無く、唯、或者より受取つた一人前三十円ばかりの金銭に対し、申訳ばかりに私を嚇かして見たに過ぎなかつたらしい。暴漢二名は警察署の取調が済んで検事局送りとなつた結果、私も証人として裁判所よりの召喚を受け出廷したが、検事より、犯人が危害を私に加へるに至つた教唆者に就て何か心当りは無いかとの取調であつたのである。私は素より爾んな事にまで深く立入つて申述べるのを好まなかつたから、ただ暴漢に襲はれた際の事実だけを有のままに申立てたのみで退廷したのである。
 然し、刺客は裁判の結果、却〻重い刑に処せられ、謀殺未遂とか何んとか云ふ罪名で懲役十年を申渡されて入獄したのだが、在獄中能く獄則を守り、改悛の状顕著なりとあつて、五六年ばかりで仮出獄を許されたのである。出獄してから刺客の一人なる千木喜十郎は、或人の紹介で一夜私を兜町の事務所へ訪ねて来られた。紹介者よりは、千木も大に前非を後悔し、出獄後何かの業務に就かうとしても資金が無いので困つてるから、若干かの金銭を当人に与へてくれよとの意を私に通じて来て居つたので、当夜面会した節に若干金を贈る事にしたのである。その際、私は「不思議な因縁で貴下と相知るに至つたこと故、その縁故により、今回貴下が出獄後の処世に便する為、若干金だけを贈るが、これは今回一度だけの事で、今後は如何に御申入れがあつても二度と金銭は断じて差上げぬから、その辺の消息を予め能く承知して置いて貰ひたい」と申聞かせると、千木は贈与に対する礼を述べ、「さて、あの時の事は……」と、先年私を襲うた時の一部始終を語り出さうとしたから、私は其言を遮り、当時の事情を談らせぬやうにし「あの時の事は私が今聞いたからとて何の役にも立たず、又之を聞くのは私の甚だ不快とする処で、貴下とても亦之を御話になるのは不利益の事であり、徒に他人へ累を及ぼすに過ぎぬから、御話になるのを御止めになつたら可からう」と申述べ、当時の事情を千木の口から聞かぬやうにしたのであるが、其後も、千木は両三回私を訪ねて来たやうに記憶する。然し、昨今何う暮らして居らるるかは存ぜぬ。
 孔夫子は平素至つて謙遜の方であつたが一たび何事にか当つて感憤せらるれば、意気昂然として天をも凌ぐ勢ひを示されたものである。「匡人其れ予を如何せん」とか、「桓魋其れ予を如何せん」とかいふ語句は即ち此の感憤の迸つたものだ。私なぞの到底孔夫子に及ばぬ事は今更ら改めて申すまでも無いが、如何に私だからとて、何時も謙遜ばかりして居るものとは限らぬ。一朝事に臨んで感憤すれば、昂然たる意気も亦自ら出て来るのである。私が暴漢に襲はれた際には、確に斯の意気があつたのだ。然し、斯る昂然たる意気は、内に省みて疚しからぬ確乎たる信念が無ければ迚も起らぬものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)