デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一

4. 壮士二名抜刀にて現る

そうしにめいばっとうにてあらわる

(30)-4

 孔夫子は、時には悲観して嘆息を漏らさるるやうな事があつても又直ぐ気を取り直して感憤勇進せられたもので、そこが孔夫子の豪い処である。既に公冶長篇に於て申して置いた通り、「道行はれず、桴に乗つて海に浮ばん、我に従はん者は其れ由か」と、恰度私が余り世間の事が面白く無くなつて来て、ムシヤクシヤする余り、郷里の血洗島に引つ込んで百姓でもしようかと思ふ時に発しでもする如き言を孔夫子が発せられた時に、御弟子の由即ち子路が之を聞いて喜ぶのを見らるるや、「由や勇を好むこと我に過ぐ、取り材る処無し」と仰せられ子路の軽挙を戒しめられた処なぞが其の好適例で、孔夫子の胸底には常に如何なる悪人も自分を滅し得るもので無い、との堅い信念のあつたものだ。この信念が子罕篇の「天の未だ斯文を喪さざるや、匡人其れ予を如何せん」の語や、述而篇の「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」の語となつて現れて居るのである。人は孔夫子のみならず、確乎動かすべからざる信念さへあれば、皆斯の意気を持つて世に臨み得らるるものだ。私の如き素より薄徳の者ではあるが、又些か、この信念、この意気無きにしもあらずである。
 既う今(大正六年)より二十五年も前のことで、明治二十五年の十一月頃だつたやうに記憶するが、伊達伯が病気であらせられたので御見舞に出かけようと思ひ、午後三時頃、まだ自動車の無い時代だつたから自用の二頭立馬車を駆つて、兜町の事務所を出で、直ぐ前の兜橋を渡り江戸橋の通りと四日市町の通りとの交叉点の処へ来懸ると、突然物蔭から二人の暴漢が抜刀で現れ、馬車馬の足の払つた事がある。私は、何んだか馬車が一寸佇止つたやうに思つたのみで、刺客に襲はれたなぞとも心付かなかつたうちに、馭者が馬に鞭を当てて極力走らしたものだから一頭は毫も傷を受けず、傷つけられた一頭も亦能く一緒に走つたので難無く其場を脱し、一トまづ駿河町の三越呉服店――当時まだ、越後屋と称して居つた店舗に這入り、休息する事にしたのだ。
 是より先数日来、馬車の馭者が、何うも近来は変だ、何者か私(渋沢)の身辺を狙つてる者があるらしいと私に注意し、又警視庁からも何うも私の身辺が近来危険のやうに思はれるから、護衛巡査を附けるやうにしたら宜からうと注意してくれたので、当時既に平服の護衛巡査が随き、人力車で馬車の後から護衛してくれて居つた事とて、暴漢が現れて抜刀で馬車馬の足を払ふや否や馬車を先に遣つて置いて、巡査は直ぐ人力車より降り、その場で暴漢二名を捕縛してしまつたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)