デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一

2. 芭蕉翁の句に似た語

ばしょうおうのくににたご

(30)-2

 然るに、幕府は毫もこの間の消息に心付かなかつたのみならず、水戸が天朝の尊厳を説いて幕府の非違を責むれば、之によつて反省するどころか、却て水戸は異図を抱いて宗家の幕府を凌がんとするものであるかの如く猜疑の眼を以て之を視たのである。私は、水戸派の学説に私淑する処が頗る多かつたものだから、「これでは既う幕府も駄目だ。必ず倒れるに極つてる」とは思つたが、是れまで談話したうちにも述べて置いたやうに、直に天朝の御親政にならうとまでは稽へなかつたのである。彼の秀吉が歿して豊臣氏がまだ亡びず、徳川の天下にならうといふ前の過渡時代に、秀吉の遺言によつて徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の五氏が五大老となり、中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴の三奉行が中心となつて老中の合議により政治を行つた如くに、勢力ある大藩の藩公が老中になつて幕府の政治を行ふやうになるだらうと思つたので、その機会に乗じ、私の主君の一橋慶喜公は賢君であらせらるるにより、公を推して老中政治の首脳者たらしめたいものであると私は思つたのである。然るに機運といふものは実に不思議なもので、慶喜公は宗家より迎へられて意外にも十五代の征夷大将軍となり、幾干ならずして王政復古の時代が来り、天朝の御親政が実現せられたのだ。
 却説、孔夫子が何故茲に掲げた章句にある「斉一変すれば云々」の語を突如として発せられたものか、何か其処には仔細のある事で、必ずや孔夫子をして斯る語を発せしむるに至つた周囲の事情が存するだらうと思ふのである。之を知りたいといふのが、私のみならず論語の読者が一般に望むで処であらう。論語に載録せられた孔夫子の語はその種類が実に千差万別で、公冶長篇にある「道行はれず、桴に乗りて海に浮ばん」といふ如き嘆息的の句があるかと思へば、子罕篇にある「天の未だ斯の文を喪さざるや、匡人其れ予を如何せん」とか、述而篇にある「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」とかいふ如き感憤的の語もある。さうかと思へば又弟子等が色々と我が志を述べて居た際に、其うちの一人なる点が「莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、泝に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん」と語つたのを聞かれ、「吾は点に与みせん」(先進篇)と、意外の言を発せられたところには、何となく悟道的の面影なぞも窺はれ、禅家の所謂サトリめいた語をも時に発して居られる。孔夫子の語のうちには往々斯く悟道的のものが見出され、中庸にある「水なる哉、水なる哉」の句なぞは、芭蕉翁の「古池や蛙飛び込む水の音」の句と、好適対であると謂ひ得られぬでも無い。

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論語章句
【公冶長第五】 子曰、道不行、乗桴浮于海。従我者其由与。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。
【雍也第六】 子曰、斉一変、至於魯。魯一変、至於道。
【述而第七】 子曰、天生徳於予。桓魋其如予何。
【子罕第九】 子畏於匡。曰、文王既没、文不在茲乎。天之将喪斯文也、後死者不得与於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。
【先進第十一】 子路・曾晳・冉有・公西華侍坐。子曰、以吾一日長乎爾、毋吾以也。居則曰、不吾知也。如或知爾、則何以哉。子路率爾而対曰、千乗之国、摂乎大国之間、加之以師旅、因之以饑饉、由也為之、比及三年、可使有勇且知方也。夫子哂之。求、爾何如。対曰、方六七十、如五六十、求也為之、比及三年、可使足民。如其礼楽、以俟君子。赤、爾何如。対曰、非曰能之、願学焉。宗廟之事、如会同、端章甫、願為小相焉。点、爾何如。鼓瑟希。鏗爾舎瑟而作、対曰、異乎三子者之撰。子曰、何傷乎。亦各言其志也。曰、莫春者、春服既成、冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而帰。夫子喟然歎曰、吾与点也。三子者出。曾晳後。曾晳曰、夫三子者之言、何如。子曰、亦各言其志也已矣。曰、夫子何哂由也。曰、為国以礼。其言不譲。是故哂之。唯求則非邦也与。安見方六七十、如五六十、而非邦也者。唯赤則非邦也与。宗廟会同、非諸侯而何。赤也為之小、孰能為之大。
デジタル版「実験論語処世談」(30) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.204-248
底本の記事タイトル:二四七 竜門雑誌 第三五四号 大正六年一一月 : 実験論語処世談(第三〇回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第354号(竜門社, 1917.11)
初出誌:『実業之世界』第14巻第16,17号(実業之世界社, 1917.08.15,09.01)