デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一

1. 大学、中庸、論語の比較

だいがく、ちゅうよう、ろんごのひかく

(31)-1

子曰。中庸之為徳也。其至矣乎。民鮮久。【雍也第六】
(子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民久しきこと鮮し。)
 孔夫子は春秋時代の人、孟子は戦国時代の人――其間に百年以上も年代の差があるにも拘らず、「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四つ合せて、之を「四書」と称ぶに至つたのは、果して何れの頃からだらうか。浅学の私には解らぬが、「孟子」は主として孟子の語を録したるもの、「大学」「中庸」「論語」は主として孔夫子の語を録したるものである。然し「大学」と「中庸」とは、その初め共に「礼記」の中へ編入せられてあつたもので、今日の言葉で謂へば単行本に成つて居なかつたのである。ところが宋になつてから、司馬光が「大学」を「礼記」のうちより抜き出して之に釈義を附し、単行本として発行し、次で程子も亦この書の価値を認めて、特に之を章別けにして編成し、それから朱子に至つて全体を経と伝とに分ち、章句の順序をも立て、註釈を加へることにしたのである。孰れにしても「大学」は孔夫子の作られたるものに相違無く、程子も「大学」の冒頭に「大学は孔氏の遺書にして、初学徳に入るの門なり」と曰うて居るが、書中には尭典だとか湯盤銘だとか或は詩経だとかの句を処々に引用などしてあつて、政教の原理研究書たるの観がある。随つて、我々は「大学」によつて孔夫子の思想の那辺にあるやを窺ひ得られはするが、直に之を日常の実践道徳に適用し、修身斉家の便に供するわけにはゆかぬのだ。
 「中庸」は孔夫子が自ら御作りになつたものでなく、その孫に当らるる名を伋と申された子思の作つたものであるといふのが、古来からの定説だ。然し、書中の主要なる部分は勿論孔夫子の語である。この一書を「礼記」のうちから引抜いて章を別け、単行本にしたものは六朝宋の戴顒であるが、宋の諸儒は更に之を講説し、朱子に至つて「大学」と等しく整然たる章句の体を成すやうにしたのである。然し「中庸」は読んで頗る面白いものなるに拘らず、前条にも申述べて置いたやうに、禅家のサトリめいた語が多く、実践道徳の上には利する処割合に少く、一種の哲学書たるの観がある。「鳶飛んで天に戻《いた》り、魚淵に躍る」などの一句は、その真意の果して何れにあるやを容易に理解し得られぬほどである。

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デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.215-221
底本の記事タイトル:二五〇 竜門雑誌 第三五六号 大正七年一月 : 実験論語処世談(第卅一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第356号(竜門社, 1918.01)
初出誌:『実業之世界』第14巻第18,19号(実業之世界社, 1917.09.15,10.01)