デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.215-221
子曰。中庸之為徳也。其至矣乎。民鮮久。【雍也第六】
(子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民久しきこと鮮し。)
孔夫子は春秋時代の人、孟子は戦国時代の人――其間に百年以上も年代の差があるにも拘らず、「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四つ合せて、之を「四書」と称ぶに至つたのは、果して何れの頃からだらうか。浅学の私には解らぬが、「孟子」は主として孟子の語を録したるもの、「大学」「中庸」「論語」は主として孔夫子の語を録したるものである。然し「大学」と「中庸」とは、その初め共に「礼記」の中へ編入せられてあつたもので、今日の言葉で謂へば単行本に成つて居なかつたのである。ところが宋になつてから、司馬光が「大学」を「礼記」のうちより抜き出して之に釈義を附し、単行本として発行し、次で程子も亦この書の価値を認めて、特に之を章別けにして編成し、それから朱子に至つて全体を経と伝とに分ち、章句の順序をも立て、註釈を加へることにしたのである。孰れにしても「大学」は孔夫子の作られたるものに相違無く、程子も「大学」の冒頭に「大学は孔氏の遺書にして、初学徳に入るの門なり」と曰うて居るが、書中には尭典だとか湯盤銘だとか或は詩経だとかの句を処々に引用などしてあつて、政教の原理研究書たるの観がある。随つて、我々は「大学」によつて孔夫子の思想の那辺にあるやを窺ひ得られはするが、直に之を日常の実践道徳に適用し、修身斉家の便に供するわけにはゆかぬのだ。(子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民久しきこと鮮し。)
「中庸」は孔夫子が自ら御作りになつたものでなく、その孫に当らるる名を伋と申された子思の作つたものであるといふのが、古来からの定説だ。然し、書中の主要なる部分は勿論孔夫子の語である。この一書を「礼記」のうちから引抜いて章を別け、単行本にしたものは六朝宋の戴顒であるが、宋の諸儒は更に之を講説し、朱子に至つて「大学」と等しく整然たる章句の体を成すやうにしたのである。然し「中庸」は読んで頗る面白いものなるに拘らず、前条にも申述べて置いたやうに、禅家のサトリめいた語が多く、実践道徳の上には利する処割合に少く、一種の哲学書たるの観がある。「鳶飛んで天に戻《いた》り、魚淵に躍る」などの一句は、その真意の果して何れにあるやを容易に理解し得られぬほどである。
斯く千変万化、機に臨み変に応じ、如何やうにでも形の変つてゆくのが是れ即ち中庸の徳と申すもので、冒頭に掲げて置いた章句は、この千変万化、自由自在なる中庸の徳を孔夫子が御説きになつたので四書中の一部を占むる「中庸」とは直接何の関係も無い。孔夫子が中庸の徳を称揚して完全無欠、其れ至れるかな、と仰せられたのは、何事によらず中庸を得て居りさへすれば決して物に過失の起る心配が無いからの事である。然し、孔夫子も斯の章句の末尾に於て曰はれて居る如く、民久しきこと鮮しで、実際永く中庸を守つて之を実行し得る人は至つて世間に少いのである。無口で無いとすればシヤベリ過ぎ、シヤベらぬとなれば今度は無口過ぎるとか、其他他人を責め過ぎる癖の人、怒り易く激し易い人、その又反対で余り他人に寛なるが為却つてその悪を助長する傾きのある人、斯んな風に、一方にばかり偏する人が兎角世間には多いのである。これが又一般人間の通有性であると謂つても可い。然し中庸の徳は臨機応変千変万化、到らざる無く、その時、その処、其の事情の如何なる時処位にも処し、その時、処、位に最も適した道を取つてゆけるのだ。それが中庸で、そこに中庸の徳があるのだ。
子貢曰。如有博施於民。而能済衆。何如。可謂仁乎。子曰。何事於仁。必也聖乎。尭舜其猶病諸。夫仁者己欲立而立人。己欲達而達人能近取譬。可謂仁之方也已。【雍也第六】
(子貢曰く、如《も》し博く民に施して、能く衆を済ふ有らば如何、仁と謂ふべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ尚ほ諸れを病めり。夫れ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂ふべきのみ。)
茲に掲げた章句のうちの前の方の部分はこれまで談話したうちにも幾度と無く引用した語であるから、字句の解釈及び意義等も既に略〻青年諸君に諒解せられて居ることと思ふので、此処では省略するが、前条にも申して置いた如く、この一章が殆ど論語の眼目であると謂つても可なるほどで、山鹿素行は斯の一章に重きを置き、当時朱子学派の唱道して居つた性理説を排斥し、仁の本体を性理の上に置かず功果の上に置き、之を堂々と論じた「政教要録」を著した処から、其れが功利説に傾いて居るといふので幕府の儒官たる林家より苦情を持ち込まれ、遂に播州赤穂へ御預けの身となつたのである。これは福本日南氏の「元禄快挙録」に載つて居る話で、之に就ては、前条にも詳しく申述べて置いたのだが、昔から苟も活眼達識の士を以て目せらるる如き人は、独り山鹿素行のみならず、皆な博く民に施して衆を済ひ、実地の功果を社会に挙げるのが是れ即ち仁であるとしたもので、菅原道真の如きも孔子教の真意を這裡にあるものと思ひ、政治を刷新して一般人民の幸福を増進せんと試み、それが遂に禍を成して太宰府に流謫の身となられたほどである。足利義満の執事に挙げられ、かの「人生慚無功」の詩で有名な細川頼之なぞも、充分に学問はありながら、経国済民のことに意を注いだ人であつたかの如く思はれる。幕府は当時儒官たる林家からの抗議に余議なくせられ、林家の手前その顔を立ててやらねばならぬ事情もあり、止むを得ず山鹿素行を赤穂の浅野侯へ御預けといふ事にはしたものの、もともと徳川家康といふ方は孰れかと謂へば功利説の人で、封建制度を確実なる基礎の上に置き、幕府の勢力を万代不易のものとし、国内の平和繁栄を計り、万民をして各その堵に安んぜしむるには、孔子教を利用するのが最も賢くつて最も力のある治政の一手段だと稽へたから、儒官を置き、孔子教を尊崇鼓吹するやうにもしたのである。帰する処は山鹿素行と等しく博く民に施して衆を済ふにあつた。(子貢曰く、如《も》し博く民に施して、能く衆を済ふ有らば如何、仁と謂ふべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ尚ほ諸れを病めり。夫れ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂ふべきのみ。)
家康は斯く論語の教訓を実地に行はうとした人で、孔子教によつて人心を善導し、忠孝を奨励して封建制度の基礎を確立する事に意を注いだものだとすれば、士農工商の階級区別を厳重にしたのも亦是れ孔子教の影響に因るので無からうかとの疑を起す者も無いでは無かろうが、士農工商の差別が明かになつて、治者と被治者とを明瞭に区別し被治者をして些かたりとも治者の権限を冒すこと無からしむる制度の確立せられたのは、孔子教の影響といふよりも、頼朝以来漸次に封建制度が発達して来た自然の結果である。家康が必ずしも農工商圧制の端緒を開いたのでも無ければ、又孔子教に農工商を圧服する傾向があるのでも無い。
芝居なんかで悪公卿に仕立てられ、反逆を企つる此の上も無い大悪人となつて「草紙洗」の狂言なぞに登て来る大友黒主は、確か大友家持の息子で、之も元来は爾んな悪人でも何んでも無く、相当の政治家であつたのだが、藤原氏の権勢に反抗して色々目論だものだから、藤原氏によつて激しく排斥せらるるに至つた結果、後世の狂言綺語にまでも大悪人の如くになつて伝へらるるのである。然るに、菅原道真が同じく藤原氏によつて排斥せられ流謫の身にまでなりながら、今日になつても猶ほ立派な非凡の人物として伝へられ、大友家持や大友の黒主の如くつまらぬ人にされてしまはずに居るのは、家持や黒主に比し人物が大きかつた上に、もともと学者で、学問の素養が深かつたからだ。什麼しても学問の素養の深い人は、後世に永く其名を残すものである。
政治に於て、治者と被治者との関係ほどに至難のものは無い。この関係を円滑に運転してゆくのが是れ即ち政治で、之が又政治の頗る至難の所以である。大体から謂へば、被治者は治者に其資金を給し、治者は被治者より支給を受くる報酬として被治者の利益幸福を増進する事に力を尽さねばならぬものだといふ順序になる。されば、韓信の如きは「人の食を食む者は人の事に死す」とさへ曰つてるほどだ。治者は被治者の食を食んでる者であるから、被治者の利益幸福の為には生命を棄てねばならぬやうな事にもなるのだ。かく一朝事あれば生命を棄ててやるからとて、平生被治者に何の権力をも与えず、之を圧服してばかり置けるものでも無く、さうかというて被治者に平素余り権力を与へ過ぎれば頓と又治まりがつか無くなり、昨今の露国に於ける如き状態のものになつてしまふ。家康が天下の平和幸福を維持せんが為に治者被治者の区別を明確にするに力めたのも、当時の事情よりすれば止むを得なかつた事だらうが、この両者の関係を円滑にし権力の過不及が両者に無くうまく調和されて居るのが善政といふものである。
維新の元勲で、能く部下を引立てたものは木戸公であるが、山県公なんぞも他人を引立てる事には一方ならぬ骨を折られる方だ。現に清浦子なんどの今日あるを得たのは、素より御当人が御豪いからでもあるが、山県公の推輓に待つ処が頗る多いやうに思はれる。
大久保公なんかも亦、却〻能く他人を引立て、之をして達する処あらしむるに力められたもので、故伊藤公があれほどに成られたのも、全く大久保公の引立てに依つたものだ。然し、大久保公は初めから伊藤公の人物を見抜いて之を引立てられたのでは無い。初めのうちは、伊藤公も酷く大久保公に嫌はれたものだ。伊藤公は何んでも物を能く知つてるが、ソワソワして沈着いたところが無く、孰方かと謂へば軽薄な方だからとて、斯く大久保公に嫌はれたのだが、一たび伊藤公の真骨頂を知るに至らるるや、之を飽くまで引立てて遂に明治年間の大立物となるまでにしたのである。
斯んな風で、昔からの豪い人はみな能く人を引立てて居る。さうで無ければ迚も亦自分も豪く為れるもので無い。
私が、始めて市原氏を知つて感心したのは、英国の海軍大臣をした事のあるベレスフォード提督が来朝した時に催した招待会で、氏がベレスフォード提督の演説を通訳された時である。一体、外人の演説通訳は誰がやつても甚だ面白く行かぬもので、普通一般には外人が一分間か二分間演説するとそれを通訳者が引取つて通訳し、又外人が演説を続け、外国語と通訳とをチヤンポンにし、全体の演説を幾つにも細かく切つてしまふのが例になつてるが、それでは演説する者も情が乗らず、聴く者も感動せず、両者共に迷惑を覚えるのみならず、殊にベレスフォード提督は英国でも有名な雄弁家だといふから、全体の演説を終つてから之を通訳することにし、演説を中途でチヨン斬つて通訳する事は廃めたら可からう――さうすれば、英語を解する列席者も満足し、演説をする当のベレスフォード提督も嘸演説が行り可からうとの意見が穂積陳重博士なぞから出たのである。
然し、雄弁家を以て有名なべレスフォード提督が一時間以上も喋べり続けた後から、全体の演説を遺漏無く通訳するには、余程語学の素養の深い人で且つ記憶の優れた者で無ければならぬからといふので、誰か彼かと評議の末、市原氏ならば行れるだらうとの説に一致し、同氏に依頼した処が、ベレスフォード提督が二時間に亘る長演説が済んでから、同氏も亦雄弁を揮つて之を遺漏無く通訳し了せたので、会衆一同も感服したが、私も其記憶力の非凡なるに感心させられたのである。其後私が妻と一緒に米国旅行を企てた際に同氏に同行を請ひ、通訳の労を取つてもらつた事もある。
市原氏は孰れかと謂へば、実業家よりも寧ろ学者肌の人で、英語の薀蓄の深かつたと共に漢学の素養も相当にあつたのだが、豪い綿密な処のあつた学者といふでは無い。又事務家として非凡の才幹があつたのでも無い。然し博く学んで之を約するに礼を以てした人で、道徳観念も強く、能く他人を護り立てる事に骨を折られた人であつた。
それから、山下氏は人物を鑑識するのに、一時の印象や気まぐれ乃至は直観と謂つたやうなものに拠らず、総て其の鑑識法にチヤーンとした順序筋道が立つて居る。甲の人は斯く斯くであるから斯く斯くの長所があり、乙の人は斯う斯うだから斯んな特色があると、整然たる理路を辿り人物を鑑識するところが、山下氏の人物鑑識眼の非凡なる所以だ。
それで、一旦人を用ひれば之を待つ事頗る厚く、能く之を引立て、先づその人を達せしめて置いてそれから自分が達しようとするから、部下なぞも山下氏には却〻能く心服して居る模様である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.215-221
底本の記事タイトル:二五〇 竜門雑誌 第三五六号 大正七年一月 : 実験論語処世談(第卅一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第356号(竜門社, 1918.01)
初出誌:『実業之世界』第14巻第18,19号(実業之世界社, 1917.09.15,10.01)
底本の記事タイトル:二五〇 竜門雑誌 第三五六号 大正七年一月 : 実験論語処世談(第卅一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第356号(竜門社, 1918.01)
初出誌:『実業之世界』第14巻第18,19号(実業之世界社, 1917.09.15,10.01)