デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一
5. 徳川時代と藤原時代
とくがわじだいとふじわらじだい
(31)-5
人才を階級に拘らずドン〳〵登庸する点に於ては、封建時代になつてからの方が却て遥かに藤原時代などよりも自由で、又、能く実際に於て人才を登庸したものである。農工商の階級にある者でも非凡の人才であつた場合には、之を士分に取立てて登庸し、治者の仲間に引き入れる口実やら便法やらは徳川時代に幾らもあつたもので、斯くして人才を抜擢重用した例は尠く無い。ここに至ると藤原氏摂関時代の方が却て窮屈で、藤原氏ならざる者は如何なる人才でも排斥されてしまひ、到底末永く重く用ひらるるまでにゆかなかつたものだ。菅原道真があれほどの人才で、宇多天皇の朝に於て大に重用せられながら、醍醐天皇の朝に至つて俄に排斥せらるるやうになつたのも、藤原氏の一族で無かつたのに原因する。「小倉百人一首」に其歌が載つてる大友家持なぞも実は却〻の人才で、単純な、世に所謂歌人では無かつたのである。光仁天皇の朝には参議兼右中弁を拝し、桓武天皇の天応元年には東宮大夫から左大弁に進んだほどで、政治的手腕の見事な人であつたのだが、延暦元年、氷上川継の不軌に関係があるとの口実で其の職を免ぜられ、その後又官に復し、延暦三年持節征東大将軍に任ぜられ、在官のまま薨じたるに拘らず、死後に及んで反逆の謀主であつたかの如き汚名を受けて名籍を除かれ、その後又桓武天皇の詔勅によつて本位に復せられたにしても、今日に至つて家持が卓識の政治家として伝はらず、ただ単に一の歌人としてのみ伝へらるるのは、全く家持が藤原氏の一族で無かつた為に激しく藤原氏より排斥せられた結果である。
芝居なんかで悪公卿に仕立てられ、反逆を企つる此の上も無い大悪人となつて「草紙洗」の狂言なぞに登て来る大友黒主は、確か大友家持の息子で、之も元来は爾んな悪人でも何んでも無く、相当の政治家であつたのだが、藤原氏の権勢に反抗して色々目論だものだから、藤原氏によつて激しく排斥せらるるに至つた結果、後世の狂言綺語にまでも大悪人の如くになつて伝へらるるのである。然るに、菅原道真が同じく藤原氏によつて排斥せられ流謫の身にまでなりながら、今日になつても猶ほ立派な非凡の人物として伝へられ、大友家持や大友の黒主の如くつまらぬ人にされてしまはずに居るのは、家持や黒主に比し人物が大きかつた上に、もともと学者で、学問の素養が深かつたからだ。什麼しても学問の素養の深い人は、後世に永く其名を残すものである。
全文ページで読む
- デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一
-
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.215-221
底本の記事タイトル:二五〇 竜門雑誌 第三五六号 大正七年一月 : 実験論語処世談(第卅一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第356号(竜門社, 1918.01)
初出誌:『実業之世界』第14巻第18,19号(実業之世界社, 1917.09.15,10.01)