2. 中庸は千変万化
ちゅうようはせんぺんばんか
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斯く千変万化、機に臨み変に応じ、如何やうにでも形の変つてゆくのが是れ即ち中庸の徳と申すもので、冒頭に掲げて置いた章句は、この千変万化、自由自在なる中庸の徳を孔夫子が御説きになつたので四書中の一部を占むる「中庸」とは直接何の関係も無い。孔夫子が中庸の徳を称揚して完全無欠、其れ至れるかな、と仰せられたのは、何事によらず中庸を得て居りさへすれば決して物に過失の起る心配が無いからの事である。然し、孔夫子も斯の章句の末尾に於て曰はれて居る如く、民久しきこと鮮しで、実際永く中庸を守つて之を実行し得る人は至つて世間に少いのである。無口で無いとすればシヤベリ過ぎ、シヤベらぬとなれば今度は無口過ぎるとか、其他他人を責め過ぎる癖の人、怒り易く激し易い人、その又反対で余り他人に寛なるが為却つてその悪を助長する傾きのある人、斯んな風に、一方にばかり偏する人が兎角世間には多いのである。これが又一般人間の通有性であると謂つても可い。然し中庸の徳は臨機応変千変万化、到らざる無く、その時、その処、其の事情の如何なる時処位にも処し、その時、処、位に最も適した道を取つてゆけるのだ。それが中庸で、そこに中庸の徳があるのだ。
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- 中庸, 千変万化
- 論語章句
- 【先進第十一】 子路・曾晳・冉有・公西華侍坐。子曰、以吾一日長乎爾、毋吾以也。居則曰、不吾知也。如或知爾、則何以哉。子路率爾而対曰、千乗之国、摂乎大国之間、加之以師旅、因之以饑饉、由也為之、比及三年、可使有勇且知方也。夫子哂之。求、爾何如。対曰、方六七十、如五六十、求也為之、比及三年、可使足民。如其礼楽、以俟君子。赤、爾何如。対曰、非曰能之、願学焉。宗廟之事、如会同、端章甫、願為小相焉。点、爾何如。鼓瑟希。鏗爾舎瑟而作、対曰、異乎三子者之撰。子曰、何傷乎。亦各言其志也。曰、莫春者、春服既成、冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而帰。夫子喟然歎曰、吾与点也。三子者出。曾晳後。曾晳曰、夫三子者之言、何如。子曰、亦各言其志也已矣。曰、夫子何哂由也。曰、為国以礼。其言不譲。是故哂之。唯求則非邦也与。安見方六七十、如五六十、而非邦也者。唯赤則非邦也与。宗廟会同、非諸侯而何。赤也為之小、孰能為之大。
【子路第十三】 葉公語孔子曰、吾党有直躬者。其父攘羊、而子証之。孔子曰、吾党之直者異於是。父為子隠、子為父隠。直在其中矣。
- デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.215-221
底本の記事タイトル:二五〇 竜門雑誌 第三五六号 大正七年一月 : 実験論語処世談(第卅一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第356号(竜門社, 1918.01)
初出誌:『実業之世界』第14巻第18,19号(実業之世界社, 1917.09.15,10.01)