デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一

2. 中庸は千変万化

ちゅうようはせんぺんばんか

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 然るに論語は是までも屡〻申述べて置いた通りで、同じ孔夫子の語録のうちでも実際の生活に触れた教訓ばかりを蒐めてあるので、書中多少孔夫子の高足たる十哲若くは准十哲の語も載録せられてあるにしても、直に之を活世間に対する処世の上に応用し得らるる。臨機応変千変万化――論語のうちにある教訓は一々実際問題に臨んだ際の解決訓になる。然も其間に毫も窮屈な処無く、ユツタリした所があつて、十二分にユトリのつくやうになつて居る。前にも一寸引用して置いた如く、御弟子等が盛んに大言壮言するのを耳にせられても総て之を軽く受け流され、「暮[莫]春には春服既に成り云々」と、点といふ御弟子が恥しさうに言ひ出した言葉を捉へて之に賛意を表せられたり、又子路篇に於て「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す、直きこと其中に在り」と曰はれて居るところなぞは、全くの常識判断で、処世上この上も無き実地の教訓である。
 斯く千変万化、機に臨み変に応じ、如何やうにでも形の変つてゆくのが是れ即ち中庸の徳と申すもので、冒頭に掲げて置いた章句は、この千変万化、自由自在なる中庸の徳を孔夫子が御説きになつたので四書中の一部を占むる「中庸」とは直接何の関係も無い。孔夫子が中庸の徳を称揚して完全無欠、其れ至れるかな、と仰せられたのは、何事によらず中庸を得て居りさへすれば決して物に過失の起る心配が無いからの事である。然し、孔夫子も斯の章句の末尾に於て曰はれて居る如く、民久しきこと鮮しで、実際永く中庸を守つて之を実行し得る人は至つて世間に少いのである。無口で無いとすればシヤベリ過ぎ、シヤベらぬとなれば今度は無口過ぎるとか、其他他人を責め過ぎる癖の人、怒り易く激し易い人、その又反対で余り他人に寛なるが為却つてその悪を助長する傾きのある人、斯んな風に、一方にばかり偏する人が兎角世間には多いのである。これが又一般人間の通有性であると謂つても可い。然し中庸の徳は臨機応変千変万化、到らざる無く、その時、その処、其の事情の如何なる時処位にも処し、その時、処、位に最も適した道を取つてゆけるのだ。それが中庸で、そこに中庸の徳があるのだ。

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デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.215-221
底本の記事タイトル:二五〇 竜門雑誌 第三五六号 大正七年一月 : 実験論語処世談(第卅一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第356号(竜門社, 1918.01)
初出誌:『実業之世界』第14巻第18,19号(実業之世界社, 1917.09.15,10.01)