3. 徳川家康の対儒教観
とくがわいえやすのたいじゅきょうかん
(31)-3
子貢曰。如有博施於民。而能済衆。何如。可謂仁乎。子曰。何事於仁。必也聖乎。尭舜其猶病諸。夫仁者己欲立而立人。己欲達而達人能近取譬。可謂仁之方也已。【雍也第六】
(子貢曰く、如《も》し博く民に施して、能く衆を済ふ有らば如何、仁と謂ふべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ尚ほ諸れを病めり。夫れ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂ふべきのみ。)
茲に掲げた章句のうちの前の方の部分はこれまで談話したうちにも幾度と無く引用した語であるから、字句の解釈及び意義等も既に略〻青年諸君に諒解せられて居ることと思ふので、此処では省略するが、前条にも申して置いた如く、この一章が殆ど論語の眼目であると謂つても可なるほどで、山鹿素行は斯の一章に重きを置き、当時朱子学派の唱道して居つた性理説を排斥し、仁の本体を性理の上に置かず功果の上に置き、之を堂々と論じた「政教要録」を著した処から、其れが功利説に傾いて居るといふので幕府の儒官たる林家より苦情を持ち込まれ、遂に播州赤穂へ御預けの身となつたのである。これは福本日南氏の「元禄快挙録」に載つて居る話で、之に就ては、前条にも詳しく申述べて置いたのだが、昔から苟も活眼達識の士を以て目せらるる如き人は、独り山鹿素行のみならず、皆な博く民に施して衆を済ひ、実地の功果を社会に挙げるのが是れ即ち仁であるとしたもので、菅原道真の如きも孔子教の真意を這裡にあるものと思ひ、政治を刷新して一般人民の幸福を増進せんと試み、それが遂に禍を成して太宰府に流謫の身となられたほどである。足利義満の執事に挙げられ、かの「人生慚無功」の詩で有名な細川頼之なぞも、充分に学問はありながら、経国済民のことに意を注いだ人であつたかの如く思はれる。幕府は当時儒官たる林家からの抗議に余議なくせられ、林家の手前その顔を立ててやらねばならぬ事情もあり、止むを得ず山鹿素行を赤穂の浅野侯へ御預けといふ事にはしたものの、もともと徳川家康といふ方は孰れかと謂へば功利説の人で、封建制度を確実なる基礎の上に置き、幕府の勢力を万代不易のものとし、国内の平和繁栄を計り、万民をして各その堵に安んぜしむるには、孔子教を利用するのが最も賢くつて最も力のある治政の一手段だと稽へたから、儒官を置き、孔子教を尊崇鼓吹するやうにもしたのである。帰する処は山鹿素行と等しく博く民に施して衆を済ふにあつた。(子貢曰く、如《も》し博く民に施して、能く衆を済ふ有らば如何、仁と謂ふべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ尚ほ諸れを病めり。夫れ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂ふべきのみ。)
- デジタル版「実験論語処世談」(31) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.215-221
底本の記事タイトル:二五〇 竜門雑誌 第三五六号 大正七年一月 : 実験論語処世談(第卅一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第356号(竜門社, 1918.01)
初出誌:『実業之世界』第14巻第18,19号(実業之世界社, 1917.09.15,10.01)