デジタル版「実験論語処世談」(9) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.10-13
私は常に孔夫子が論語に説かれてある所によつて、去就進退を決することに致して居る者故、私の渡米が果して予期せらるる如き効果を実際に挙げ得るや否や、素より今に於て逆睹し得べきでは無いが、成敗を論ぜず、一身の利害を顧みず、兎に角取り急ぎ明春の加州議会前に渡米して、在米同胞諸君の御利益を計り、国威を失墜せず円満に多年の懸案を解決し得るよう、及ばずながら微力を添へるのが私として当に尽すべき国民たるの義務で、御奉公の一端を果す所以であらうかと存ずるのである。
林放問礼之本。子曰。大哉問。礼与其奢也寧倹。喪与其易也寧戚。【八佾第三】
(林放礼の本を問ふ。子曰く、大なる哉問や。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹なれ。喪は其の易めんよりは寧ろ戚めよ)
茲に掲げたる章句は、論語「為政」篇の次の篇に当る「八佾」篇の初頭の処にあるのだが、孔夫子の所謂「礼」の意義は、既に一度詳しく申述べ置ける如く、儀式とか儀礼とか小さい範囲に限られたもので無いのである。坐臥進退に関する礼節の如きは寧ろ礼の末に属するもので、礼の礼たる要は、社会全般に亘つて秩序を維持するといふ処にある。故に、礼の一字に含まるる範囲は頗る広く、大は一国の政治刑律より、小は人の一挙手一投足にまで亘り、外は威儀典礼の末より内は心の持ち方にまでも及んで居るのである。礼の一字に斯る高遠なる意味の含まれてある事は、論語「顔淵」篇に於て、[「]克己復礼為仁。一日克己復礼。天下帰仁焉。(己れに克て礼に復るを仁と為す。一日己れに克ちて礼に復れば、天下仁に帰す)[」]と孔夫子が説かれたるに徴しても明かで、礼を修めて仁ならんとすれば、まづ己れに克つて私慾私心を棄ててしまはねばならぬことになる。これ精神修養の道では無いか。又己に克つて礼を修むれば天下は仁に帰して秩序が整然となる。これ政道の極意では無いか。「礼記」に周の刑政の事を載せてあるのも、実に之が為である。(林放礼の本を問ふ。子曰く、大なる哉問や。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹なれ。喪は其の易めんよりは寧ろ戚めよ)
孔夫子は此の質問に接せらるるや、魯の人であつて礼の事には疎い筈の林放が、斯る問を発したのを多とし、其質問の頗る要領を得て居るのに甚く感心せられ、先づ「大なる哉問や」と林放を褒めて置いてそれから其質問に答へられたのであるが、孔夫子の答弁は何時でも細かい事を並べてクドクドと説かれる如き繁に陥らず、言簡にして要領を得、巧に意を尽してしまはれる所に妙味がある。
林放が礼の本を尋ねたるに対し答へられたるものが矢張それで、礼の本とは斯く斯くのものであるとか、斯うあらねばならぬ筈のものだとかと、クドクドしく説き立てたら、問題が根本的のもので大きくある丈けに一朝一夕で尽きず、際限が無くなつてしまふ。是に於てか孔夫子は、言を礼の本の方に及ぼすのを避けられて、特に之に言及せず礼の末に走つた弊を捉へて指摘せられ、これによつて自然と礼の本の何であるかを問ふ者に理解せしめられるやうにしたのである。これが所謂気の利いた答弁と申すものである。孔夫子は聖人であらせられたが、その言論には常に気の利いた所のあつたもので、有子が「学而」篇に於て「孝弟也者。其為仁本与」(孝弟なる者は其れ仁を為すの本か)」などと道破した所は、孔夫子の此の気の利いた弁論振りを学ばれた結果である。
かく孔夫子が論語に於て訓へられてあるので、私は野人礼に慣はぬ所もあるが、他人に対して成るべく粗末なる言葉など使はず、衷心より如何なる人にも敬意を表することに致して居る。又、祖先を祀ることなどに就ても、敢て外形を整へるといふやうな事に力を致さず、世間普通の事だけを致し、精神に重きを置く事に致して居る。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.10-13
底本の記事タイトル:二〇四 竜門雑誌 第三三三号 大正五年二月 : 実験論語処世談(九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)
初出誌:『実業之世界』第12巻第19号(実業之世界社, 1915.10.01)
底本の記事タイトル:二〇四 竜門雑誌 第三三三号 大正五年二月 : 実験論語処世談(九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)
初出誌:『実業之世界』第12巻第19号(実業之世界社, 1915.10.01)