デジタル版「実験論語処世談」(9) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.10-13

 今上陛下御即位の御大典も来る秋冬の候に於て目出度御挙行あらせらるるに就ては、実に千載一遇の御盛儀のこと故是非之に参列の光栄を荷ひたいのは私として山々の次第であるが、私も既に本年七十六歳この上なほ永い余生のある身とも思へぬ。かく思ふにつけてもこの残り少い余生を少しでも国家の御利益になるやうに用ゐて一生を終りたいといふのが、私の微衷である。今回御大典を目前に控へながら、看す看す之に参列するの光栄を荷はずに十月下旬横浜出帆の汽船によつて渡米の事に決心したのも、全く奉公の微衷の致す処で、仮令この老軀でも多少国家の御利益になるものとすれば、一日の大饗に参列して独り自ら之を光栄として悦ぶよりは、国家百年の福祉の為に微力を献ずるのが、孔夫子の論語に於て説き遺された忠孝の道を全うする所以であらうかと存ずるのである。
 私としては博覧会見物をした処で別に面白いわけでも無く、又遥々亜米利加三界まで罷出でたからとて物質上の利得があるといふのでも無い。俗にいふ三文の徳にもならぬ。若しできるものならば御免を蒙つて済ましたいわけであるが、私の渡米が多少なりとも日米両国の国交親善に貢献し得る所がありとすれば、老軀を慮つたり或は又、御大典参列の光栄に浴したいのを思つたりして、自分の身の上の都合ばかり考へ、渡米を見合すやうでは、論語に所謂「義を見て為さざるは勇無き也」の譏を免れず、孔夫子の御叱りを受けねばならぬわけのものである。私今回の渡米は、これも亦止むに止まれぬ大和魂の致す処とでも申すべきだらうか。
 私は常に孔夫子が論語に説かれてある所によつて、去就進退を決することに致して居る者故、私の渡米が果して予期せらるる如き効果を実際に挙げ得るや否や、素より今に於て逆睹し得べきでは無いが、成敗を論ぜず、一身の利害を顧みず、兎に角取り急ぎ明春の加州議会前に渡米して、在米同胞諸君の御利益を計り、国威を失墜せず円満に多年の懸案を解決し得るよう、及ばずながら微力を添へるのが私として当に尽すべき国民たるの義務で、御奉公の一端を果す所以であらうかと存ずるのである。
林放問礼之本。子曰。大哉問。礼与其奢也寧倹。喪与其易也寧戚。【八佾第三】
(林放礼の本を問ふ。子曰く、大なる哉問や。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹なれ。喪は其の易めんよりは寧ろ戚めよ)
 茲に掲げたる章句は、論語「為政」篇の次の篇に当る「八佾」篇の初頭の処にあるのだが、孔夫子の所謂「礼」の意義は、既に一度詳しく申述べ置ける如く、儀式とか儀礼とか小さい範囲に限られたもので無いのである。坐臥進退に関する礼節の如きは寧ろ礼の末に属するもので、礼の礼たる要は、社会全般に亘つて秩序を維持するといふ処にある。故に、礼の一字に含まるる範囲は頗る広く、大は一国の政治刑律より、小は人の一挙手一投足にまで亘り、外は威儀典礼の末より内は心の持ち方にまでも及んで居るのである。礼の一字に斯る高遠なる意味の含まれてある事は、論語「顔淵」篇に於て、[「]克己復礼為仁。一日克己復礼。天下帰仁焉。(己れに克て礼に復るを仁と為す。一日己れに克ちて礼に復れば、天下仁に帰す)[」]と孔夫子が説かれたるに徴しても明かで、礼を修めて仁ならんとすれば、まづ己れに克つて私慾私心を棄ててしまはねばならぬことになる。これ精神修養の道では無いか。又己に克つて礼を修むれば天下は仁に帰して秩序が整然となる。これ政道の極意では無いか。「礼記」に周の刑政の事を載せてあるのも、実に之が為である。
 礼の本を孔夫子に質問に及んだ林放は魯の人である。当時の礼を説くものが、末節にのみ拘泥して如何にも繁文縟礼をのみこれ事として居るのを見、礼の大本は決して斯るものであるまいとの疑を起し、又周の礼に於て貴ぶところも斯る繁文縟礼の末節であらう筈が無いと考へたので、礼記を編まれるまでに礼の事に精通し居らるる孔夫子と知つて、林放は斯く礼の根本の何れの辺にあるかを質問に及んだものと思はれる。
 孔夫子は此の質問に接せらるるや、魯の人であつて礼の事には疎い筈の林放が、斯る問を発したのを多とし、其質問の頗る要領を得て居るのに甚く感心せられ、先づ「大なる哉問や」と林放を褒めて置いてそれから其質問に答へられたのであるが、孔夫子の答弁は何時でも細かい事を並べてクドクドと説かれる如き繁に陥らず、言簡にして要領を得、巧に意を尽してしまはれる所に妙味がある。
 林放が礼の本を尋ねたるに対し答へられたるものが矢張それで、礼の本とは斯く斯くのものであるとか、斯うあらねばならぬ筈のものだとかと、クドクドしく説き立てたら、問題が根本的のもので大きくある丈けに一朝一夕で尽きず、際限が無くなつてしまふ。是に於てか孔夫子は、言を礼の本の方に及ぼすのを避けられて、特に之に言及せず礼の末に走つた弊を捉へて指摘せられ、これによつて自然と礼の本の何であるかを問ふ者に理解せしめられるやうにしたのである。これが所謂気の利いた答弁と申すものである。孔夫子は聖人であらせられたが、その言論には常に気の利いた所のあつたもので、有子が「学而」篇に於て「孝弟也者。其為仁本与」(孝弟なる者は其れ仁を為すの本か)」などと道破した所は、孔夫子の此の気の利いた弁論振りを学ばれた結果である。
 さて礼を重んじ、其末に走るの弊は林放の考えたる如く繁文縟礼に流るる事であるが、繁文縟礼だけならばまだしも、儀礼を繕つて人の手前を飾らんが為に奢侈に陥る者を往々にして生ずる恐れがある。一たび斯る弊に陥れば如何に威儀を整へ礼儀に欠くところが無くつてもその威儀その礼儀は悉く抜け殻になつてしまひ、形があつても魂の無いものになる。礼の要は形骸でない。その礼を執り行ふ者が人に対する時の精神にある。故に外形の礼儀を完うせんが為に奢侈の弊に陥るよりは、寧ろ、外形の礼儀を欠く恐れがあつても関はぬから倹約を旨とし、人を尊敬する精神と、物事を慎重に考慮し之を軽忽に取扱はぬ精神とを絶えず忘れぬやうにするのが大切である。この精神さへあれば、仮令外形に於て欠くる所があつても其人は礼に於て完きものである。喪即ち凶礼も勿論礼の中であるが、喪も外形に於て徒に完全無欠を期するよりは、精神に於て悲哀痛惜の情を盛んならしむるやうにするのが礼儀上の道である。
 かく孔夫子が論語に於て訓へられてあるので、私は野人礼に慣はぬ所もあるが、他人に対して成るべく粗末なる言葉など使はず、衷心より如何なる人にも敬意を表することに致して居る。又、祖先を祀ることなどに就ても、敢て外形を整へるといふやうな事に力を致さず、世間普通の事だけを致し、精神に重きを置く事に致して居る。
 礼は兎角乱世になると乱れ易いもので、行はれぬ勝ちになる。礼の重んぜられて修めらるるのは世の中が泰平になつてからの事である。随つて維新当時の豪傑たちのうちには、礼を重んじた人が余り見当らなかつたやうに思はれる。何れもみな磊落な質で、勝手に挙動つたものである。その結果、家道の斉まらなかつた方々が多かつたやうである。木戸公でも井上侯でもみな、それである。その中で、まづ比較的礼を修めて堅かつたといふのは大隈伯ぐらゐのものであらうかと思はれる。それでも一部には色々の非難もあるか知らぬが、大隈伯ならばまづ家道も斉まつた方と申上げて然るべきだらう。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.10-13
底本の記事タイトル:二〇四 竜門雑誌 第三三三号 大正五年二月 : 実験論語処世談(九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)
初出誌:『実業之世界』第12巻第19号(実業之世界社, 1915.10.01)