3. 礼は他無し社会の秩序
れいはほかなししゃかいのちつじょ
(9)-3
林放問礼之本。子曰。大哉問。礼与其奢也寧倹。喪与其易也寧戚。【八佾第三】
(林放礼の本を問ふ。子曰く、大なる哉問や。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹なれ。喪は其の易めんよりは寧ろ戚めよ)
茲に掲げたる章句は、論語「為政」篇の次の篇に当る「八佾」篇の初頭の処にあるのだが、孔夫子の所謂「礼」の意義は、既に一度詳しく申述べ置ける如く、儀式とか儀礼とか小さい範囲に限られたもので無いのである。坐臥進退に関する礼節の如きは寧ろ礼の末に属するもので、礼の礼たる要は、社会全般に亘つて秩序を維持するといふ処にある。故に、礼の一字に含まるる範囲は頗る広く、大は一国の政治刑律より、小は人の一挙手一投足にまで亘り、外は威儀典礼の末より内は心の持ち方にまでも及んで居るのである。礼の一字に斯る高遠なる意味の含まれてある事は、論語「顔淵」篇に於て、[「]克己復礼為仁。一日克己復礼。天下帰仁焉。(己れに克て礼に復るを仁と為す。一日己れに克ちて礼に復れば、天下仁に帰す)[」]と孔夫子が説かれたるに徴しても明かで、礼を修めて仁ならんとすれば、まづ己れに克つて私慾私心を棄ててしまはねばならぬことになる。これ精神修養の道では無いか。又己に克つて礼を修むれば天下は仁に帰して秩序が整然となる。これ政道の極意では無いか。「礼記」に周の刑政の事を載せてあるのも、実に之が為である。(林放礼の本を問ふ。子曰く、大なる哉問や。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹なれ。喪は其の易めんよりは寧ろ戚めよ)
- デジタル版「実験論語処世談」(9) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.10-13
底本の記事タイトル:二〇四 竜門雑誌 第三三三号 大正五年二月 : 実験論語処世談(九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)
初出誌:『実業之世界』第12巻第19号(実業之世界社, 1915.10.01)