デジタル版「実験論語処世談」(9) / 渋沢栄一

5. 礼の要は精神にあり

れいのかなめはせいしんにあり

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 さて礼を重んじ、其末に走るの弊は林放の考えたる如く繁文縟礼に流るる事であるが、繁文縟礼だけならばまだしも、儀礼を繕つて人の手前を飾らんが為に奢侈に陥る者を往々にして生ずる恐れがある。一たび斯る弊に陥れば如何に威儀を整へ礼儀に欠くところが無くつてもその威儀その礼儀は悉く抜け殻になつてしまひ、形があつても魂の無いものになる。礼の要は形骸でない。その礼を執り行ふ者が人に対する時の精神にある。故に外形の礼儀を完うせんが為に奢侈の弊に陥るよりは、寧ろ、外形の礼儀を欠く恐れがあつても関はぬから倹約を旨とし、人を尊敬する精神と、物事を慎重に考慮し之を軽忽に取扱はぬ精神とを絶えず忘れぬやうにするのが大切である。この精神さへあれば、仮令外形に於て欠くる所があつても其人は礼に於て完きものである。喪即ち凶礼も勿論礼の中であるが、喪も外形に於て徒に完全無欠を期するよりは、精神に於て悲哀痛惜の情を盛んならしむるやうにするのが礼儀上の道である。
 かく孔夫子が論語に於て訓へられてあるので、私は野人礼に慣はぬ所もあるが、他人に対して成るべく粗末なる言葉など使はず、衷心より如何なる人にも敬意を表することに致して居る。又、祖先を祀ることなどに就ても、敢て外形を整へるといふやうな事に力を致さず、世間普通の事だけを致し、精神に重きを置く事に致して居る。

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デジタル版「実験論語処世談」(9) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.10-13
底本の記事タイトル:二〇四 竜門雑誌 第三三三号 大正五年二月 : 実験論語処世談(九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)
初出誌:『実業之世界』第12巻第19号(実業之世界社, 1915.10.01)