デジタル版「実験論語処世談」(9) / 渋沢栄一

2. 渡米の精神論語に発す

とべいのせいしんろんごにはっす

(9)-2

 私としては博覧会見物をした処で別に面白いわけでも無く、又遥々亜米利加三界まで罷出でたからとて物質上の利得があるといふのでも無い。俗にいふ三文の徳にもならぬ。若しできるものならば御免を蒙つて済ましたいわけであるが、私の渡米が多少なりとも日米両国の国交親善に貢献し得る所がありとすれば、老軀を慮つたり或は又、御大典参列の光栄に浴したいのを思つたりして、自分の身の上の都合ばかり考へ、渡米を見合すやうでは、論語に所謂「義を見て為さざるは勇無き也」の譏を免れず、孔夫子の御叱りを受けねばならぬわけのものである。私今回の渡米は、これも亦止むに止まれぬ大和魂の致す処とでも申すべきだらうか。
 私は常に孔夫子が論語に説かれてある所によつて、去就進退を決することに致して居る者故、私の渡米が果して予期せらるる如き効果を実際に挙げ得るや否や、素より今に於て逆睹し得べきでは無いが、成敗を論ぜず、一身の利害を顧みず、兎に角取り急ぎ明春の加州議会前に渡米して、在米同胞諸君の御利益を計り、国威を失墜せず円満に多年の懸案を解決し得るよう、及ばずながら微力を添へるのが私として当に尽すべき国民たるの義務で、御奉公の一端を果す所以であらうかと存ずるのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(9) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.10-13
底本の記事タイトル:二〇四 竜門雑誌 第三三三号 大正五年二月 : 実験論語処世談(九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)
初出誌:『実業之世界』第12巻第19号(実業之世界社, 1915.10.01)