デジタル版「実験論語処世談」(23) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.150-157
維新以来、日本にも随分豪い人物が多く現れた。伊藤公でも、大隈侯でも又井上侯でも夫々みな豪い御仁であるに相違は無いが、孰れも善を伐りたがる方々のみで、「おれは是れ丈け豪いぞ」と言はぬ計りに吹聴するを好まれる方である。善を伐らぬ人は殆んど御見受け致さぬほどであると申しても過言では無いが、西郷隆盛公、それから西郷従道侯などは此の間にあつて善を誇らぬ人であつたかのやうに思はれる。昨年の暮薨去になつて国葬を受けられた大山巌公なども、亦、善を誇らぬ方であつたやうに思ふのである。
善を伐つたり、労を他に転嫁したりしたがる人は、何うしても多くの人から懐き慕はれるもので無い。多くの人から懐き慕はれる人は、決して自分の善を誇らぬものだ。大山公には別に是れといふやうな傑出した能所があつて、人目を惹いたのでも何んでも無かつたが、大層よく人が懐いて多くの人々に慕はれた方である。これは善を誇らなかつたからであらうと思はれる。人が善を誇らぬやうになるのには先づ第一に発達した常識が無ければならぬものである。善を伐つたり、労を他に転嫁したりする人はつまり常識の乏しい人である。大山公は常識が発達して之に富んで居られたものだがら、善を誇らず、他からも懐き慕はれるやうになられたものであらうと察せられる。然し更に又常識の根柢となるものに、同情心のある事を忘れてはならぬ。精神の根柢に同情心が無ければ、人の常識は決して発達せぬものだ。善を伐らなかつた人としては、西郷隆盛公、西郷従道侯、大山巌公などの外に猶ほ木戸孝允公、徳大寺実則公なども亦其人であつたかと私は思ふのである。
人は年が寄れば、何と謂つても気短になる。前途が短かいからといふわけでもあるまいが、気力が衰へて来るので気永にして居られぬからだらう。又気力が衰へて来るから、齢を重ねた人は何うしても記憶力の鈍いものである。私なども近来は余程気永にするつもりでも兎角気短になり易く、又記憶力が若い時分に比較すれば著しく減退して来たのに、自分ながら困つて居るほどのものである。然し又老人は橙の数を重ねて長命して来て居る丈けあつて、社会の変遷、人事の転変等にも多く接し、その結果勢ひの落付く処は大抵何んなものか――その呼吸を能く会得し、斯うなれば那的なるもの、那的ゆけば斯うならねばらぬものであるといふ消息を未然にチヤンと予知し得られるまでになつてゐる。従つて若い者のやうにお調子にのつて逸り過ぎ、為に失敗を招く如き危険も稀になり、よし失敗があつたからとて又世の中の景気が悪くなつたからとて、若い者の如く甚く悲観したりなぞするものでも無い。されば若い時分から修養工夫を重ねて来たものが老人になれば、「為政篇」のうちに既に孔夫子も仰せられてある如く、「七十にして心の欲する所に従つて矩を踰えず」といふ自由自在の境涯に入り得らるるものであらうと思ふ。老人の若い者に優る長所は実に其心の欲する処に従つて矩を踰えざる点である。此処が即ち亀の甲より年の功の致す所とでもいふべきであらうか。
昨年の暮にかかつてから株式市場に大暴落があつて、大分痛んだ人も多い模様であるが、私は本年七十八歳の春を迎へて大分老人になつてる丈けに、之れまで随分多くの変動を目にして来て居る。明治十年の西南戦争後には何うであつたか、日清戦争の後は何う、日露戦争の後は何うといふ事を能く知つて居る。随つて昨年の暮の如くに、あア人気が熱して昂まつて来れば必ずアノ熱した人気が冷却して衰へ、株式市場に当然暴落を見るに至るべき事は私が余程前から予知して居つた処である。あの暴落があつた後の今日であるから、敢て先見めいた事を申すのでも何でも無い――まだ暴落の無かつたうちに、兜町の事務所の人達などへは「私が若し株屋だつたら、此際売り方に廻る。屹度儲かるから……」と笑ひながら談つたほどだ。老人には、多年の経験によつて、これくらゐの事は解るものである。
それから孔夫子は、朋友は之れを信じ、少者は之れを懐けるのが志であると述べて居られるが、子供と申す者は不思議に同情心のある常識の発達した人で無いと懐かぬものである。子供に懐き慕はるるやうな人でありさへすれば、その人は善人であると申しても差支へない。
子曰。已矣乎。吾未見能見其過而内自訟者也。【公冶長第五】
[(]子曰く。已んぬるかな。吾れ未だ能く其過を見て内に自ら訟むる者を見ざるなり。)
人は兎角身儘勝手なもので、自分で自分の過失を知つて、自ら之を責むるといふやうな事を致さず、仮令、過失を知つて之れに気付いても、過失で無い事にして通さうとしたり、或は過失を飾つて人の眼を誤魔化さうとしたりなどしたがるものだ。中には他人に我が過失を知られても、自分は強ひて之を知らぬやうな顔をして図々しく通してしまはうとする人なぞもある。甚しきに至つては十分自分の非に気付いて居りながら、なほ且つ其非を遂げようとする者さへある。斯る不心得の者の多いことは、二千五百年の昔、孔夫子在世の比も、二千五百年後の大正の今日も同じものと見え、孔夫子は茲に掲げた章句にある如く「已んぬるかな」即ち「あゝ〳〵何うも仕やうが無い事だ」と、自ら其過失を責むる人物の当時甚だ乏しいのを嘆息して居られる。是によって之を観れば、自ら其過失に気がついて之を責むるほどの人物が大正の今日に少い如くに、孔夫子の時代にも矢張甚だ尠なかつたものと思はれる。[(]子曰く。已んぬるかな。吾れ未だ能く其過を見て内に自ら訟むる者を見ざるなり。)
世の中には何事にも進化といふものがあつて、宇宙も進化し、生物も進化し、美人にさへ進化があるとの事だが、如何にも其の通りで、一切万事世間の事にはみな進化の痕が歴々として眼に映つて見える。随つて道徳にも亦進化のあるべき筈で、現に昔の忠孝と今日の忠孝とは同じ忠孝でも忠孝の発顕する形式に異つたところがあり、昔支那で「廿四孝」として賞め頌へられた孝行の形式は、大正の今日に於て決して行はれ得る形式で無い。実際にあつた事か無かつた事か、其辺のところまでは瞭然致さぬが、郭巨の如く我が親を養はんが為に我が子を生埋めにするなぞといふ行為は今日の道徳観念の上から謂へば、之を孝なりとして賞めるわけにゆかぬのである。斯く稽へて見れば、道徳にも明かに進化のあるものと観ねばならぬのだ。然し二千五百年前の孔夫子在世の比にも亦二千五百年後の今日にも、相変らず我が過失を見て内に自ら訟むる者の少い一事に想ひ到れば、道徳は二千五百年前より今日に至るまで毫も進化の痕が無いやうにも思はれる。
又、孔夫子が切りに説かれた先王の道なるものは、尭舜禹湯文武の諸帝が実践躬行せられた道を指したものであるが、孔夫子は尭帝を去ること少くとも二千五百年、周の武王からですらも少くとも三百年後の人だ。かくして尭帝の時代にも、それから少くとも二千五百年を経た後の孔夫子の時代にも道に二つなく、依然として先王の道が人の履むべき道で、それが又孔夫子より二千五百年を去る今日に於ても猶ほ人の履むべき道だとしたら、道徳には進化といふものが無いと断定し得られぬでも無い。此処が疑問だ。
又一国としても、万世一系の天皇を国君に奉戴する我が日本帝国のみは例外であるが、支那に於ても墨西哥に於ても又欧洲の葡萄牙などに於ても、主権の争奪に関しては随分見苦るしい圧迫やら戦争やらが行はれて居る。この点に於て舜が尭より帝位の禅りを受けた時の状態などは実に立派なもので堂々たるところがある。深く漢学を修めた学者のうちには、舜は道を以て帝位の禅りを尭より受けたものでなく、尭を圧迫し尭の子たる丹朱を排斥して押し込め、尭をして無理に帝位を舜に禅らしめたのであるなぞと論ずる者も無いでは無いが、私が今日までに読んだり、また多少研究したりした処によつて判断すれば、帝位の受授は尭舜の間に至極円満に行はれたもので、尭は舜の偉大崇高なる人格を見込み、自ら進んで位を舜に禅つたものと思はれる。決して舜が尭を圧迫して位を禅らせたものでは無い。
然るに尭より五千年後の今日は寧ろ却つて斯の種の道徳が退歩して居つて、一国の主権を奪はうとする不逞の臣が現れたり、或は又無理から戦争を仕掛けて現に位にある者を倒し、取つて自ら之に代らうとしたりなどする。その傍若無人、道徳を無視する処置は聞いた丈けでも心持の悪くなるくらゐのものだ。之を思へば五千年以来、道徳は毫も進歩して居らぬのみか、却つて退歩の痕があると謂つても差支無いのである。あゝ、道徳は古来果して進化したのだらうか、将た退化したのだらうか。
人と人との間の道徳が如何に進歩したからとて、国と国との間の道徳が之に準じて矢張進歩して居るやうでなければ、個人道徳も為に其の影響を蒙り、発達を阻害せらるる事になる。手近な一例を挙げて見ても、個人道徳の上では泥棒をすることや婦女子を辱しめたりする事は悪い行為だとなつてるのだが、国際道徳の進歩して居らぬ結果、愈よ開戦の段取となり、国と国とが干戈の間に相見える場合にでもなれば、独逸軍が白耳義を侵略占領してからの実例に照らしても明かなる如く、掠奪やら婦女子を辱める事やらが勝手次第になつてしまつた。個人としても泥棒を働く事や穢褻な行為を営む事が何でも無いかの如くに視られ、折角今日までに進歩した個人道徳までが根本的に破壊せられてしまひ、智慮の乏しい人たちは泥棒だとか婦女子を辱めるだとかいふ事は、果して人間として恥づべき行為であらうか何うかと云ふ疑ひを懐くやうにならぬでも無い。こんな風に個人の道徳観念が動揺するやうでは、何時まで経つても個人の道徳を進めてゆく事すら絶望であると謂はねばならぬ。個人道徳を進歩させる上にも、国際道徳の進歩は欠くべからざる事だ。今度の戦争で欧洲諸国は共に苦い経験を嘗めたことだから、戦争でも終つたら国際道徳を進歩さすることに、世界の先覚者が或は力を注ぐやうになるやも知れぬが甚だ以て心細い至りである。
孔夫子や孟子が切りに説かれた王道、即ち王者の道といふものは、今日で申す国際道徳の事である。今日よりも昔の時代には却つて支那なぞにさへ王道即ち国際道徳が行はれて居つたもので、一国が武力によつて他の国を圧迫し、之を併呑するやうな事は滅多に無かつたものである。斉にしても魯にしても決して他を圧迫したものでは無い。
一国が生産殖利の道を講じ、その結果、その国が繁栄して旭日昇天の勢を示すものあるに対し、他の国が生産殖利の道を講ぜぬ為に衰亡して倒れてしまつたのを収めるのは、決して悪い事で無いが、生産殖利によつて国を繁栄させ、その富を以て武力を拡張し、之によつて他国を圧迫し之を併呑してしまふのは、国際道徳を無視した野蛮の行為である。
私が猶ほ在官中の頃は今日の如く内閣に列する国務大臣が直に各省の大臣を兼ね、入つては相、出でては将といふわけに参らず、内閣と各省とは別々になつて居つて、内閣は太政官と称せられ、国務大臣は参議と称し、各省の長官にはそれぞれ「卿」といふものがあつたのだが、大蔵省では大久保公が名ばかりの長官で、実務はみな井上侯が大輔で之を取扱つたものである。斯く、内閣と各省とが別々になつて居たものだから、各省の間に統一が行はれず、殊に大蔵省とは各省が盛んに衝突したもので、大蔵省では成るべく国庫の金銭を支出しまいとする。各省では成るべく多く取らうとする――互に鎬を削つたものである。
井上侯は既に是れまで談話したうちに申上げたやうに頗る堅実な財政方針を立て、紙幣を乱発しては財政紊乱の端緒を開くからといふので、各省よりの要求を極力防いだのだが、江藤新平さんが司法卿で盛んに大蔵省を圧迫して金を出させやうとするのに憤慨し、井上侯は屡々腹を立てて辞職すべしと意気巻き、往々出省せぬので、今度は井上侯の次官をして少輔格で居つた私を圧迫して来たものである。私も又井上侯が出省せぬのを楯に取り、長官が留守だから支出ができぬと頑張つたものである。本来ならばこの際、大蔵卿の大久保公が何んとか裁断を下すべきであるのだが、当時公は条約改正の件で欧米に差遣された岩倉大使の一行に随従して洋行中であらせられたものだから、総て尻を当時内閣の首長であつた太政大臣の三条卿に持ち込んで、その裁決を仰ぐ事になつたのである。是に於てか公は、衷心井上侯の堅実なる財政方針に同情しては居られたにも拘らず、各省と大蔵省との間に立つて板挿みとなり、裁決に苦んで大変に困まられたものである。公が私を宥める為に、態々神田小川町の私の寓居に駕を枉げられたのはその頃のことで、前後合して三回ばかり私を訪ねられたやうに記憶する。
子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。【公冶長第五】
(子曰く、十室の邑、必ず忠信丘が如き者あらん。丘の学を好むが如くならざるなり。)
茲に掲げた章句で第五の「公冶長篇」に就ての談話を終ることになるのであるが、斯の章句の意は、人に向上心の必要なる所以を説かれたもので、僅に十戸ばかりの小さな村にも孔夫子の如く、能く忠に能く信なる者は必ずある。然し孔夫子の如くに、学を好んで絶えず向上を心掛けて居る者が無いので、偉い人物が現れぬのだと仰せられたのが、斯の章句の間に顕はるる孔夫子の御精神である。如何にも其の通りで、人々は如何に忠貞の心があり、信義を守るに厳なるところがあつても、唯之を消極的に守つてゆく丈けでは決して発達進歩するもので無い。道に志して学を好み、絶えず修養を怠らぬ者が進歩発達するのである。(子曰く、十室の邑、必ず忠信丘が如き者あらん。丘の学を好むが如くならざるなり。)
私が郷里の血洗島に帰つてもその時に起す感じは、矢張孔夫子が、斯の章句に於て説かれたところと同じで、血洗島にも私の如く能く忠なるものはあらう。私の如く能く信なるものもあらう、又私と同じ程度に学問したものもあらう。然し、私の如く実学を志して学問し、私の如く道を愛して自分を向上させようとの熱心を以て学問した者は無からうと申したくなるのである。さればとて、私のした漢学なんかは至つて浅薄なもので、是れというほどの役には立たず、殊に私が学問を致すべき盛りの齢頃には、世の中が騒しくつて落着いて学問などして居るわけに参らず、為に私は遂に洋学を修める機会を逸してしまつた事を、今以て甚だ遺憾に思ふものである。
孔夫子の斯の章句に於て「学」と仰せられた語の内容中には、二つの意義が含まつて居る。その一つは今日で謂ふならば物理学、化学、工学、応用化学、機関学等までも含まれて居る格物致知の学を意味したもので、他の一つは精神上の修養を意味したものであらうと私は思ふのである。同じ格物致知の百科学を修むるにしても、真に学問を好んで修めると、ただ親の手前世間の手前、学問をせねば体裁が悪いからとて、義務的に修めるのとでは、その出来栄えに非常な差を生ずるものである。孔夫子の如きは、真に学を好んで学を修められたから彼の通り古今無比の聖人になられたのである。真に学を好んで学を修め孜々として及ばざるを唯是れ恐れて居りさへすれば、人の品性も亦自づと向上して来るものである。
物事の大綱を握り、人情の趨く所を察し、刻下の時勢に処して何が最も急務であるかといふ事を明察し、決然たる覚悟を得る如きは何うしても学問をした人で無ければできぬ事で、単に才智や力量や努力ばかりではできるもので無い。それから学問をした人は、何かにつけ其人の為る仕事に順序が立つて、秩序正しく事業を進めてゆけるものである。然るに、学問の無い人の為る仕事は何うしても順序が乱雑で、事業が秩序正しく進行せぬものである。此頃西洋では能率増進といふことが八釜しい問題になつて研究せられて居るやうだが、同じ「一」の力でも学問をした人が之を持てば、学問を為ぬ人よりもその能率を増進させてゆく事のできるものである。畢竟予定を立ててキチンと秩序正しく仕事を進めてゆき、此の次ぎには是れ、これが済んだらアレと、時間にも力にも無駄を拵へずに悉く之を有効に利用し得らるるからである。
学校卒業生が役に立つとか立たぬとかいふ問題も、窮極するところその能率如何によつて決せらるべきものだらうと思ふが、学校の学課を順序よく修めて来たものは、之を学校出身ならざる者に比すれば何うしても其仕事に秩序的な順序正しいところがあって、能率が進んで顕はれて来るやうに思はれる。之が私の今日まで実験した処によつて達し得た結論である。私一己人としても及ばず乍ら自分の仕事を順序立てて進めてゆく事ができたり、又変遷の激しい時勢に処して刻下の急務の何なるやを察知判断するを得たのは、全く多少なりとも学問をして居つた功徳の致すところで、茲に学問の利があるのでは無からうかと思ふのである。学問をした人が、学問が無いからとて経験のある人の経験を蔑つてはならぬやうに、経験のある人も自分に経験があるからとて学問のある人の学問を侮つてはならぬものである。広い意味から謂へば学問は一種の経験であり、経験は又一種の学問である。老人も青年も斯の辺の消息を篤と心得置くべきである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.150-157
底本の記事タイトル:二三四 竜門雑誌 第三四七号 大正六年四月 : 実験論語処世談(二三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第347号(竜門社, 1917.04)
初出誌:『実業之世界』第14巻第4,5号(実業之世界社, 1917.02.15,03.01)
底本の記事タイトル:二三四 竜門雑誌 第三四七号 大正六年四月 : 実験論語処世談(二三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第347号(竜門社, 1917.04)
初出誌:『実業之世界』第14巻第4,5号(実業之世界社, 1917.02.15,03.01)