デジタル版「実験論語処世談」(23) / 渋沢栄一

4. 国際道徳の退歩甚し

こくさいどうとくのたいほはなはだし

(23)-4

 大体から謂へば道徳にも進化があつて、時代と共に進歩するものであると私は今日まで思ひ来つたのであるが、翻つて少し皮肉な観察を下せば道徳は進化したどころか寧ろ却つて退化した傾向がある。殊にこれが国際道徳に於て甚しいかの如くに見受けられる。斯く道徳が退化したのは、本来を謂へば精神文明と物質文明とが並行して進むべきものであるのに、物質文明のみが長足の進歩を遂げ、精神文明の進歩が之に伴はなかつたので、恰も天秤の一方の皿に重量を加へれば他の一方の皿が急に軽くなつて、ピンと跳ね上つてしまう如くに、精神文明は物質文明の進歩に逆比例して退化したものであるやも知れぬ。孰れにしても今日国際間には殆ど道徳が無いと謂つても過言で無いほどで、その結果、欧洲戦争の如き人類の大不祥事をすら惹き起すに至つたのである。今日に比すれば三千年前の支那大陸には却つて国際道徳が遵守せられて居つたと謂はねばならなくなる。
 又一国としても、万世一系の天皇を国君に奉戴する我が日本帝国のみは例外であるが、支那に於ても墨西哥に於ても又欧洲の葡萄牙などに於ても、主権の争奪に関しては随分見苦るしい圧迫やら戦争やらが行はれて居る。この点に於て舜が尭より帝位の禅りを受けた時の状態などは実に立派なもので堂々たるところがある。深く漢学を修めた学者のうちには、舜は道を以て帝位の禅りを尭より受けたものでなく、尭を圧迫し尭の子たる丹朱を排斥して押し込め、尭をして無理に帝位を舜に禅らしめたのであるなぞと論ずる者も無いでは無いが、私が今日までに読んだり、また多少研究したりした処によつて判断すれば、帝位の受授は尭舜の間に至極円満に行はれたもので、尭は舜の偉大崇高なる人格を見込み、自ら進んで位を舜に禅つたものと思はれる。決して舜が尭を圧迫して位を禅らせたものでは無い。
 然るに尭より五千年後の今日は寧ろ却つて斯の種の道徳が退歩して居つて、一国の主権を奪はうとする不逞の臣が現れたり、或は又無理から戦争を仕掛けて現に位にある者を倒し、取つて自ら之に代らうとしたりなどする。その傍若無人、道徳を無視する処置は聞いた丈けでも心持の悪くなるくらゐのものだ。之を思へば五千年以来、道徳は毫も進歩して居らぬのみか、却つて退歩の痕があると謂つても差支無いのである。あゝ、道徳は古来果して進化したのだらうか、将た退化したのだらうか。
 人と人との間の道徳が如何に進歩したからとて、国と国との間の道徳が之に準じて矢張進歩して居るやうでなければ、個人道徳も為に其の影響を蒙り、発達を阻害せらるる事になる。手近な一例を挙げて見ても、個人道徳の上では泥棒をすることや婦女子を辱しめたりする事は悪い行為だとなつてるのだが、国際道徳の進歩して居らぬ結果、愈よ開戦の段取となり、国と国とが干戈の間に相見える場合にでもなれば、独逸軍が白耳義を侵略占領してからの実例に照らしても明かなる如く、掠奪やら婦女子を辱める事やらが勝手次第になつてしまつた。個人としても泥棒を働く事や穢褻な行為を営む事が何でも無いかの如くに視られ、折角今日までに進歩した個人道徳までが根本的に破壊せられてしまひ、智慮の乏しい人たちは泥棒だとか婦女子を辱めるだとかいふ事は、果して人間として恥づべき行為であらうか何うかと云ふ疑ひを懐くやうにならぬでも無い。こんな風に個人の道徳観念が動揺するやうでは、何時まで経つても個人の道徳を進めてゆく事すら絶望であると謂はねばならぬ。個人道徳を進歩させる上にも、国際道徳の進歩は欠くべからざる事だ。今度の戦争で欧洲諸国は共に苦い経験を嘗めたことだから、戦争でも終つたら国際道徳を進歩さすることに、世界の先覚者が或は力を注ぐやうになるやも知れぬが甚だ以て心細い至りである。

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キーワード
国際, 道徳, , 退歩
デジタル版「実験論語処世談」(23) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.150-157
底本の記事タイトル:二三四 竜門雑誌 第三四七号 大正六年四月 : 実験論語処世談(二三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第347号(竜門社, 1917.04)
初出誌:『実業之世界』第14巻第4,5号(実業之世界社, 1917.02.15,03.01)