デジタル版「実験論語処世談」(23) / 渋沢栄一

6. 三条公は自ら訟めし人

さんじょうこうはみずからせめしひと

(23)-6

 談話は大そう横径に入つてしまつたが、あれで三条実美公なぞは、よく吾が過失を見て内に自ら訟むる人であらせられたやうに御見受け申さるるのである。私が三条公と御知合になつた頃には、三条卿も至極御穏当で遠慮勝の御仁になつて居られたが、素は却々の過激党で文久三年公が国事掛を勤め居られて、既に談話したうちにもある通り、長州藩が堺町御門の警備方を解かれ、長州と事を共にした公の御身の上が危くなつた為め、他の六公卿と共に長州へ所謂七卿落をさなれた頃には、随分無鉄砲なところもあらせられたやうに思はれる。それが私の御遇ひ致す頃には至極遠慮勝の人に成つて居られたといふのも、吾が過失を見て、内に自ら訟められた結果であらうかと御察し申上ぐるのである。
 私が猶ほ在官中の頃は今日の如く内閣に列する国務大臣が直に各省の大臣を兼ね、入つては相、出でては将といふわけに参らず、内閣と各省とは別々になつて居つて、内閣は太政官と称せられ、国務大臣は参議と称し、各省の長官にはそれぞれ「卿」といふものがあつたのだが、大蔵省では大久保公が名ばかりの長官で、実務はみな井上侯が大輔で之を取扱つたものである。斯く、内閣と各省とが別々になつて居たものだから、各省の間に統一が行はれず、殊に大蔵省とは各省が盛んに衝突したもので、大蔵省では成るべく国庫の金銭を支出しまいとする。各省では成るべく多く取らうとする――互に鎬を削つたものである。
 井上侯は既に是れまで談話したうちに申上げたやうに頗る堅実な財政方針を立て、紙幣を乱発しては財政紊乱の端緒を開くからといふので、各省よりの要求を極力防いだのだが、江藤新平さんが司法卿で盛んに大蔵省を圧迫して金を出させやうとするのに憤慨し、井上侯は屡々腹を立てて辞職すべしと意気巻き、往々出省せぬので、今度は井上侯の次官をして少輔格で居つた私を圧迫して来たものである。私も又井上侯が出省せぬのを楯に取り、長官が留守だから支出ができぬと頑張つたものである。本来ならばこの際、大蔵卿の大久保公が何んとか裁断を下すべきであるのだが、当時公は条約改正の件で欧米に差遣された岩倉大使の一行に随従して洋行中であらせられたものだから、総て尻を当時内閣の首長であつた太政大臣の三条卿に持ち込んで、その裁決を仰ぐ事になつたのである。是に於てか公は、衷心井上侯の堅実なる財政方針に同情しては居られたにも拘らず、各省と大蔵省との間に立つて板挿みとなり、裁決に苦んで大変に困まられたものである。公が私を宥める為に、態々神田小川町の私の寓居に駕を枉げられたのはその頃のことで、前後合して三回ばかり私を訪ねられたやうに記憶する。

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キーワード
三条実美, 自ら, 訟む,
デジタル版「実験論語処世談」(23) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.150-157
底本の記事タイトル:二三四 竜門雑誌 第三四七号 大正六年四月 : 実験論語処世談(二三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第347号(竜門社, 1917.04)
初出誌:『実業之世界』第14巻第4,5号(実業之世界社, 1917.02.15,03.01)