デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.110-118

子謂子貢曰。女与回也孰愈。対曰。賜也何敢望回。回也聞一以知十賜也聞一以知二。子曰。弗如也。吾与女弗如也。【公冶長第五】
(子、子貢に謂て曰く、汝と回と孰れか愈れる。対て曰く、賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る、賜や一を聞く二を知るのみ。子曰く、如かざる也、吾は汝の如かざるに与みせん。)
 茲に掲げた章句のうちの「回」とは顔回のことであるが、「賜」は子貢の名である。一日孔夫子は子貢に向はれ、「顔回と貴公と孰れの方が豪らからうかな?」と御問ひになつたのである。すると子貢は、「私なぞは兎ても顔回に及びません、顔回は一を聞いた丈で能く十を知るが、私は一を聞いて二を知り得たらそれで既う精々で厶います」と、自分の顔回に及ばざる所以を述べたのである。之を耳にせられた孔夫子は、子貢が己れの愚を知る明があるのを深く賞せられ、「如何にも其の通りで、貴公は顔回に及ばぬが、及ばぬ事を知つてるところが豪いのだ」と仰せになつたといふのが、この章句の意味である。
 顔回の如く一を聞いたのみで、それからそれへと察しをつけ、能く十を知り得るまでに頭脳の働く人は滅多にあるもので無い。否、子貢の如く一を聞いて二を知り得る人さへ、容易に世間には在るもので無いのである。大抵の人は一を聞いても、其の一をすら満足に理解らずにお茶を濁して居るばかりである。然しそれでも自惚だけは相応に強く、己の愚を覚らずして、一と廉の才子ででもあるかの如く思うて挙動ひ、為に却つて大きな過失を仕出来すことになる。又、一を聞いて十を知るといふ事も、顔回の如く学問上に於てならば格別だが、一概に結構な性分であるとのみ謂ひ得られない場合がある。
 是まで申述べたうちにもある如く、私を一橋家に推薦して慶喜公に御仕へ申すやうにして呉れた人は平岡円四郎であるが、この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。平岡円四郎の外に、私の知つてる人々のうちでは、藤田東湖の子の藤田小四郎といふのが一を聞いて十を知るとは斯る人のことであらうかと、私をして思はしめたほどに、他人に問はれぬうちから前途へ前途へと話を運んでゆく人であつた。
 藤田小四郎に会つたのは、私が廿四歳、小四郎が廿二歳の時で、土竈河岸(蠣殻町)に道場を開いて居つた市和田又左衛門といふ人の許に出入りする穂積亮之助――私の親戚の穂積とは全く違ふが――と申す者の紹介によつたのであるが、場所は今の砲兵工廠のある水戸屋敷の近所の鰻屋に於てである。その際私は小四郎に対ひ、水戸が桜田事変の如きを惹起して、単に幕府の当路者にのみ反抗して幕府そのものを攻撃するのに手ぬるい処のあることを責めたり、又水戸の藩内には朋党が盛んで互に相争ふ如き醜態を演ずる事のあるのを攻撃したりなどしたが、小四郎は所謂一を聞いて十を知る鋭敏の頭脳を持つた人であつたから、私より問を発せぬうちに、早や私が聞かうとして居つた条項を能く察知し、チヤンとサキ廻りをして一々之を並べ挙げ、水戸と幕府との関係は斯く斯く、長州との関係はしかじかと詳細に説明弁解したものである。私は之を聞いて廿二歳にしては実に能く気の付く賢い人だと思つたのである。
 外務大臣をなされたことのある陸奥宗光伯は、平岡円四郎と殆ど全く同型の人で、一を聞いて十を知る機敏な頭脳を持つて居られたかのやうに思はれる。兎角一を聞いて十を知る質の人は、余りにさき廻りをするので、他人に厭やがれる[厭やがられる]傾きのあるものだが、陸奥伯には爾んな傾向がなく至つて交際ひ易い人であつた。随つて平岡円四郎のやうに非業の最期をも遂げず、畳の上で死ぬことが出来たのである。
 私は陸奥伯を一寸御世話申した縁故があるところより、伯は欧羅巴に出張して居られる間も始終私の許に文通せられたもので、私は伯の手簡を数百通も所持して居る。知人から私に送られた手簡のうちで伯のが一番に数が多からうと思ふ。伯も平岡円四郎のやうに、一寸したことを聞いた丈けでそれからそれへと考へを進めて往き、事を未然に察知するまでの才智のあつた人だが、孰らかと謂へば金銭と権勢とに動かされ易く、一身の利達を謀らんが為めには形勢を察して金銭と権勢とのあるところに就くを辞さなかつたらしく、大丈夫の志が無かつた人のやうに思へる。それから妙に他人を凌ぐやうな傾向があつて、談話などでも自分の才智に任せて対手を圧迫して来る如き気味合を示したものである。之が為め、多少他人から厭がれた[厭がられた]こともあらうが、交際は至つて如才のなかつた方である。
宰予昼寝。子曰。朽木不可雕也。糞土之牆。不可杇也。於予与何誅。子曰。始吾於人也。聴其言而信其行。今吾於人也。聴其言而観其行。於予与改是。【公冶長第五】
(宰予昼寝ぬ。子曰く、朽ちたる木は雕るべからず。糞土の牆は杇るべからず。予に於てか何ぞ誅めん。子曰く、始め吾れ人に於けるや、其言を聴きて其行を信ず。今吾れ人に於けるや、其言を聴きて其行を観る。予に於てか是を改む。)
 茲に掲げた章句は、御弟子のうちでも、言論弁舌にかけては非凡の長所ありとせられた十哲の一人なる宰我(その名は予)が昼寝をして居つたのを耳にせられ、之を憤つて発せられた孔夫子の言葉であるがただ昼寝をして居つたといふ丈では、これほどに憤られさうな筈も無いから、単に昼寝をして居つたのみでなく、白昼妾宅にでも入浸りをして居つた処を見つかつたのであらうなぞとの説もある。又「昼」の字は「画」の字の誤りで宰我が寝室に卑穢な絵を画かした事を聞き知られた為に、御咎めになつたものであらうなぞとの説もある。然し、こんな風に余り微細なる点に渉つてまで詮索するのは却つて囚はれたる解釈ではなからうかと私は思ふのである。孔夫子御教訓の趣意は、宰我が言論に秀でて平常立派な事ばかりを申して居るに拘らず、行実之に伴はず、兎角言行の不一致勝なるを責められ、従来は宰我の如き立派な言論を聴けば必ず其の行実も言論の如く立派なものであらうと信じて居つたが、今回宰我の言行不一致なるを観るにつけても、大に覚る処があつたから、以後は其人の言によつて其行を信ぜず、実際の行動を見た上で人物を判断する事に致さうと仰せられたのであるらしく思へる。要するに、口ばかり達者で行の之に副はぬ人の多いのを慨かれたのがこの章句の真意である。
 孔夫子に於かせられてさへ、始めのうちは其の言によつて其人を信ぜられたほどのものゆゑ、況んや孔夫子ほどでも無い凡夫の我儕は、兎角若いうちなどその人実際の行為に就て碌々調べて見もせずただ僅に其人の言を聴くのみで、一寸立派げな正しさうな事を曰ふからとて直ぐ之を信じたりなぞ致す傾向のあるものである。孔夫子も経験を積まれるに随ひ、宰我の例などもあつたので言を聴いたのみで其人を信ずる事の軽挙なるに気づかれ、其言を聞いた上に其実際の行を見て、人物を判断するやうになられたものと思はれる。
 孔夫子は果して何歳の頃から斯く人物鑑別の方法を改めらるるやうになつたものか私には解らぬが、人は経験を積むに随ひ、飼犬に手を噛まれて見たりなぞすれば、浮つかり人の口車に乗つてはならぬものだといふ事に気のつくものである。真に人を鑑別しようとするには、其言を聴き其行を観た丈けでも猶ほ不満足な所のあるものである、更に一歩を進め、為政篇に於て孔夫子が「其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉ぞ廋さんや」と説かれた御教訓中にもある如く、行為のみならず行為の根本となる精神、精神の由来する安心立命の基礎にまでも観察を進めて、人物の真相を判断するやうにせねばならぬものである。さう致しさへすれば人の真相は必ず之を明かにし得られるるもので、孔夫子の仰せらるる通り、「人焉ぞ廋さんや」である。この事に就ては詳しく為政篇のところで申述べて置いたから、茲では省略する。
 従来も申述べたことのある如く、非凡の才識を具へられた人で、存外人物の鑑別眼に乏しい方が尠く無い。如何に自分に才識が無くつても、人物に就ての鑑別眼さへあれば部下に優秀の人物ばかりを網羅し得られるから、自分だけの才略智能を以てするよりも遥に良成績を挙げらるるものである。昔から大事業を成した人は、自分の才識によるよりも部下に人物を得た人の方に多いやうに思はれる。一人の才識智能は如何に非凡であるからとて、凡そ限定のあるもので、さうさう隅から隅にまで及び得られるもので無い。然し、才識があり手腕のある人を遺憾なく部下に網羅して置けば、各その特技を発揮し、一長一短相補ひ、事業を大成し得らるるものである。故に、苟も大事業を成さんとするの大志ある人は、自分の才識によつて事を遂げようとするよりも、人物を鑑別して適材を適所に配置し、部下に人を得ることに意を用ひねばならぬものである。
 前条にも申述べた平岡円四郎なども、御当人は非凡の才識を有せられた人に相違無いが、人物を鑑別する鑑識眼に於ては乏しかつたらしく、その用ひた人が悉く善良の人であつたとは言ひ得ぬやうに思はれる。私が少壮血気に逸つて、幕府を倒してやらうとの精神で国事に奔走して居る際に、幕府からの手が廻つて、危く馘にでもならうといふところを、平岡円四郎は一橋慶喜公に仕へるやうにして呉れたのであるから、当時平岡は私を識つて呉れたのであると謂へば、平岡にも人物の鑑識眼があつたものだと申さねばならぬ事にもなるが、平岡に当時私が識られたと思ふのは間違ひで、多少事理の解る男をまだ齢も行かぬのに殺してしまうのは可哀さうなものだから助けてやらうぐらゐのところで救つてくれたものらしく、私を観て大に用ゆべしとしたからでは無からうと思ふ。
 陸奥宗光伯も、前条に談話した通りで、御自身には優れた才識のあらせられた人で、権勢と金力とのあるところを見て之に就く事にかけては誠に敏捷であつたが、人物を鑑別する力に於ては、余り優れた方であつたとは申上げかねるやうに思へる。随つて、陸奥伯の交はられた人や用ひられた人は、必ずしも善良誠実の人ばかりであつたやうにも思へぬ。井上侯は、孰れかと謂へば元来が感情家であるから、人物を鑑別するに当つても亦感情に駆られ、是非善悪正邪の鑑別が出来ないで、好きだと一度思ひ込んだら、其人に悪るい性質のある事を覚り得ぬまでの盲目になつてしまひさうに思はれるが、決して爾んなことの無かつた方で、人を用ひるには、まづ其人物の是非善悪正邪を識別するに努められ、それから後に始めて用ゆべきを用ひたものである。随て佞人を仁者であると思ひ違へて之を重用する等の事も無かつたものである。
子曰。吾未見剛者。或対曰。申棖。子曰。棖也慾。焉得剛。【公冶長第五】
(子曰く、吾れ未だ剛者を見ず。或人対へて曰く、申棖かと。子曰く、棖や慾あり、焉んぞ剛を得ん。)
 茲に掲げた章句は慾のある者は却て真正の勇気に乏しく、人は無慾恬淡にして初めて真の勇者となり、強者たるを得べきものであると教へたものである。孔夫子の如く物慾に恬淡で、サツパリして居らるる仁の眼から世間の人々を見渡されたら、定めし皆が意気地無しの弱虫になつて見えたものだらうと思はれる。俗に「強慾」と申す語のあるほどで、慾には如何にも強い所があるやうにも稽へられるが、決して爾うで無い。
 孔夫子が斯の章句に説かれた「剛」の字は「強」の字と稍々其意を異にし、義しい観念の上に立つて踏ん張る時の勇気を指したもので、「剛毅」といふ熟字を作るに用ひらるる「剛」と同じ意味の「剛」である。人の行為の中で何が一番に剛毅な所行であるかと謂へば、申すまでも無く孔夫子の所謂「身を殺して仁を成す」事である。人に取つて死を何とも思はぬほど剛い事は無いのであるが、慾があつては兎ても、我が身を殺して他人の為めに仁を成すことなぞの出来るものでは無い。
 されば、孔夫子が、従来曾て剛者と目すべき人を見たことが無い、実に遺憾の至りである、と歎声を発せられたるに対し、或人が傍より「御弟子の申棖ならば剛者と申してもよろしからう」と申上げると、「あれは、慾が深いから、見た所剛さうでも駄目だ」と仰せられたのである。如何にも孔夫子の言の通りで、慾が深いと名利を以て誘はるれば直に之に誘はれてしまひ、正義の上に立つて剛くウンと踏ん張ることのできぬものである。慾の深い人は斯く単に名利に誘はれて不義に与みし易い弱点があるのみならず、不義に与みせぬと苦しい目に遭はすぞと威嚇されるとか、或は又正義に与みすれば窮乏の境遇に陥らねばならぬといふことが明かに見えでもすれば、直ぐ弱くなつて不義に屈してしまふものである。
 斯る次第で、慾の強い人ほど不義に対しては却つて弱く、慾に淡い人ほど正義に立つて剛いものである。慾の強い人は快楽によつても誘はれるが、又苦痛によつても誘惑されるものである。何故慾のあるものは斯く苦楽に対して弱いかといふに、慾が強いと如何しても人に求むる所が多く、人に求むる所が多いと、また如何しても剛く出られぬことになるからである。慾の強い人は決して剛毅の人たるを得るもので無い。
子貢曰。我不欲人之加諸我也。吾亦欲無加諸人。子曰。賜也非爾所及也。【公冶長第五】
(子貢曰く、我れ人の諸れを我れに加ふるを欲せざるや、吾れも亦諸れを人に加ふる無からんと欲す。子曰く、賜や爾が及ぶ所に非ざるなり。)
 茲に掲げた子貢の言は、孔夫子が顔淵篇に於て説かれた「己所不欲勿施於人。」(己れの欲せざる所は人に施すこと勿れ)の御教訓と略々同一意味の如くにも思はれるが、己れの欲せざる所を人に施さぬといふくらゐの事ならば、私の実験の上から申しても左程六ケしいもので無いやうに思はれる。下世話にも「我が身を抓つて、他人の痛さを知れ」とある通りで、自分の身を抓つてみれば痛い事は直ぐ知れるから少し情のある人間ならば他人の身を抓るやうな事の出来るもので無い然るに、孔夫子が子貢に対ひ、「賜や爾の及ぶ所に非ざるなり」と、兎ても子貢なぞの出来る事でないからと特に仰せになつたところによつて察すれば、子貢の言は「己れの欲せざる所は人に施すこと勿れ」と孔夫子の教へられた処と、何処かに異るところがあるやうに思はれる。単に、己れの欲せざる処を人に施さぬ、といふことだけのことならば、私の如き者に取つてさへさまで行ひ難い事でも無いのであるから、それが十哲の一人たる子貢に出来ぬといふ筈無く、孔夫子が特に「賜や爾の及ぶ所に非ざるなり」などと仰せにならぬだらうと思ふのである。
 己れの欲せざる所を人に施さぬといふ事と、人が我に加へて欲しく無いと念ずることを人にも加へまいと思ふ事との間には、恕と仁との相違がある。「己れの欲せざる処は人に施すこと勿れ」といふ観念の中にあつて主眼の要素となるものは自分であるが、「我れ人の諸れを我れに加ふるを欲せざるや、吾れも亦諸れを人に加ふる無からんと欲す」といふ観念の中にあつて、主眼の要素となるものは他人である。自己を主として他人に非義を施さぬだけならば、少しく自制の念があつて「恕」の道を弁へ、極端に走る事をだに慎めば、誰でも或は容易に之を行ひ得られるやうになるだらうが、他人を主にし、他人をして非義を我に加へしめぬやうにすると共に、我れも亦他人に非義を加へぬやうになる事は、余程人格に大きい所のある仁者で無ければ到底出来ぬ業である。是れ孔夫子が子貢に対せられてすら「賜や爾の及ぶ所に非ざるなり」と仰せられた所以であらうかと思はれる。昔から「情に手向ふ刃は無し」との語があるほどで、真の仁者に対しては、如何に無理道の人間でも非義を加ふるに躊躇するものだが、身に仁の至徳を具へた英傑でないと、如何に他人をして我れに非義を加へしめざらんとしても、それはとても出来るもので無いのである。以て、仁徳の力の如何に大にして、之を体することの如何に六ケしいものであるかを知り得られるだらう。
子貢曰。夫子之文章。可得而聞也。夫子之言性与天道。不可得而聞也。【公冶長第五】
(子貢曰く、夫子の文章は、得て聞くべき也。夫子の性と天道とを言ふは得て聞くべからざる也。)
 茲に掲げた章句は学問上に関する事で、私が申述べる実験上より来た論語処世談とは少し縁の遠いものであるかのやうにも思はれる。随つて、私なぞが彼是と解釈めいたことを申上げたところで、青年子弟諸君に利益する所も少いだらう。遮莫此の章句の趣旨は孔夫子の徳が形になつて現れた処のものである文章ならば、子貢に於ても之を玩味して理解し得られぬでも無いが、孔夫子の天道と性とに関する議論は余りに深遠にして子貢如きの窺ひ得ざるところで、到底その真義の何れにあるやは兎ても解るもので無いといふにある。必ずしも孔夫子は実践道徳に就てのみ談らるるので、その天道と性とに就て談らるるのを耳にする機会が稀であるといふ意味では無からうと思ふ。子貢の斯の言は、恐らく孔夫子の説く性と天道に就て談らるるところが如何にも宏遠で、自分の如き菲才を以てして之を完全に理解しようとするのは、到底及ばざる所であると歎じて発せられたものであらうかと思はれる。
子路有聞。未之能行。唯恐有聞。【公冶長第五】
(子路聞くことありて、未だ之を行ふ能はざれば、唯聞くことあらんを恐る。)
 子路と申さるる御弟子は、前条にも申述べたことのある通り、頗る率直な面白い仁であらせられたものだから、何事でも善言を聞いたならば、必ず之を実践するに努力せられたものらしく、聞いても行ひ得ないくらゐならば、初めから聞かぬ方がマシだといふほどの意気込みであつたので、それが茲に掲げた章句となつて顕れたのであらうかと思はれる。つまり、博聞洽識よりも実践躬行の重んずべきを説いたのが斯の章句の意である。行ひ得ざる事には決して耳を傾くるなとの意味では無いのである。
 然し、聞いて直に之を実行にすると否とは別問題として、世間には好んで他人の言を聞く人と、他人の言には一切耳を傾けず自分一人でばかり喋舌つて他人に聞かせる人との二種類がある。大隈侯の如きは他人の言を聞くよりも他人に自分の言を聞かせるのを主とせらるる御仁である。よく「私は今日大隈侯にナニ〳〵の事を申上げに往つて来た」なぞと話して居る人を見かけることもあるが、大隈侯の処へ出掛けた人は自分だけは如何に申上げて来た積りでも、大抵は申上げずに申聞かせられて帰るのが例である。私なぞも時に大隈侯へ何か申上ぐるために罷出づることもあるが、その時には先づ談話を始める前に、「今日はかくかくの用件を申上ぐる為に折角罷出でたのであるから、これ丈けの事は是非御聴取を願いたい。御意見のところは当方から申上ぐる事を御聴取下された上で伺ふことに致したいから……」と斯う予め念を押して置いてそれから用件の談話に取りかかるのであるが、それでも兎角、当方の談話の終るまで黙つて聴いて居られず、中途から横道に談話を引き込んで聞かせようとせられる癖がある。それでも用件の談話に取りかかる前に、予め注意を致して聴いて下さるやうに御頼み致して置けば聞かせらるるばかりにならず、聞いてお貰ひ申すことの出来るやうになるのである。然うでないと折角御話を申上げに出かけても、何も申上げずに帰つてしまはなければならぬやうなことになつてしまふのである。
 ただ大隈侯に就て感心するところは、あの通り他人に聞かせるばかりで容易に他人の談話を聞かうとせられぬ割に、他人がチヨイ〳〵と話したことを存外よく記憶して居らるることである。早稲田大学教授の塩沢昌貞博士より承る処によれば、先般、欧洲の平和克復に関する公開状説明の任務を帯びて来朝した米国人で心理療法学者として相当の学殖あるモルトン・プリンスは、大隈侯と会見する前に自分の著になつた「心理学上より観たるカイゼル」の一書を侯に贈つて置いてあつたそうだが、侯はプリンス氏と会見の際、この一書の内容に就き能く記憶し居られ、これを話題に載せていろ〳〵談論を試みられたと云ふ事である。塩沢博士の談話によれば、平素は聴かせる一方の大隈侯も、学術上の事になると余り口を出さず、神妙に他人の談話を聴かれるさうである。
 大隈侯が他人の言を聞かず、他人に自分の言を聞かさうとする方の極端であるとすれば、自分の言を他人に聞かさうとせず、他人の言を聞く方の頭は山県公であらうかと思ふ。山県公も稀には自分の意見が斯く斯くであるなぞと言はれることの無いでも無いが、これは稀有のことで、大抵は他人の意見を聴かうとする一方である。そこに往くと伊藤公は大隈侯と山県公との恰度中間で、他人の言を能く聞きもしたが、又自分の言を能く他人に聞かせもせられたものである。聞きつつ聞かすといふのが伊藤公であつた。
 西郷従道侯も言葉数の多くなかつた御仁で、聞かすよりも聞く方であつたが、妙な変つたところのあつた方で、能く他人の談話を聴いて居られながら、ヒヨイと其言葉の尻なんかを捉まへ「よか頼む」と謂つたやうな調子で笑つたりなぞして、軽快に物事を取扱つてゆかれたものである。兄さんの隆盛公ほどには兎ても参らなかつたらうが、別に之といふ程の学問があるといふのでもなく、著しい手腕があるといふでも無かつたのに、自然と那的だけになられて重要なる位置を占め元勲の間に重んぜられたところによつて見ても、凡人の及ばぬ偉いところのあらせられた御仁であつた事が知れる。従道侯は如何なる大事に臨んでも決して之に囚はれてしまはず、大事を旨く外して之に屈託せず、悠々自適の間に之を処置し得られた方である。何んでも、北海道辺に旅行をして居られた時のことであつたと思ふが、重要なる国事に関し協議を要する件が起つたので、当時の政府から電報を以て侯の帰京を促した。然し、大事に臨んでも之を外して軽く取扱つてゆくことにかけて妙を得て居られた侯は、この帰京の督促急電に対し、甚句の文句か何かを其のまま取つて「マトマルモノナラマトメテオクレ」との返電を発したと云ふことである。
 西郷従道侯が斯く事物に屈託せず、如何なる大事をも軽く取扱つて悠々自適してゆけたのは、名利に執着せず、至つて淡泊な所があつた為めだらうと私は思ふのである。然し、如何に名利に淡泊であつたからとて、死んだ跡から直ぐ借金取に押しかけられて遺族が困るといふでも無く、そこは又チヤンとしたところのあらせられたものである。
 如何に名利に執着せぬからとてその平素がだらし無く、諸方から借りつ放しで之を返へさうといふ気さへ起さず、葬式の翌日から遺族が他人の世話にならねば暮らせぬといふやうでは、死んでしまつた当人は兎も角もとしたところで、跡に残つたものは非常に苦しまはねばならぬ。他人の持つてる物を引つたくるまでにしても猶ほ子孫の為に美田を買はうとする如きは素より賤むべきことで宜しく無い。然し己れを全うしさへすれば其れで我事終れりと做し、遺族の為に友人やら親戚を煩はし、之に厄介迷惑をかけるやうでも亦宜しく無いのである。西郷侯は其辺の事を能く心得居られたもので、名利に恬淡なる間にも子孫が困らぬだけの計をチヤンと立てて置かれたので、侯の遺族は今日に至るも立派に暮して居らるるのみか、兄さんの隆盛公の嗣子までが侯爵に叙せられ、矢張り立派に暮して居られる。これは、素より天朝の思召より出たことに相違無いが、その間に立つて従道侯の斡旋も亦大に力のあつたことだらうと思はれる。この点なぞから稽へれば、従道侯は却々に常識に富まれた方であつたと謂はねばならぬ。磊落のやうでダラシ無くならず、物事を軽く取扱つて其で誠意があり、始終愛国の念を絶たなかつた所に西郷従道侯の特色があるのである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.110-118
底本の記事タイトル:二二五 竜門雑誌 第三四二号 大正五年一一月 : 実験論語処世談(一八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第342号(竜門社, 1916.11)
初出誌:『実業之世界』第13巻第19,20号(実業之世界社, 1916.09.15,10.01)