デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一

10. 恕を得るも仁を得ず

じょをうるもじんをえず

(18)-10

子貢曰。我不欲人之加諸我也。吾亦欲無加諸人。子曰。賜也非爾所及也。【公冶長第五】
(子貢曰く、我れ人の諸れを我れに加ふるを欲せざるや、吾れも亦諸れを人に加ふる無からんと欲す。子曰く、賜や爾が及ぶ所に非ざるなり。)
 茲に掲げた子貢の言は、孔夫子が顔淵篇に於て説かれた「己所不欲勿施於人。」(己れの欲せざる所は人に施すこと勿れ)の御教訓と略々同一意味の如くにも思はれるが、己れの欲せざる所を人に施さぬといふくらゐの事ならば、私の実験の上から申しても左程六ケしいもので無いやうに思はれる。下世話にも「我が身を抓つて、他人の痛さを知れ」とある通りで、自分の身を抓つてみれば痛い事は直ぐ知れるから少し情のある人間ならば他人の身を抓るやうな事の出来るもので無い然るに、孔夫子が子貢に対ひ、「賜や爾の及ぶ所に非ざるなり」と、兎ても子貢なぞの出来る事でないからと特に仰せになつたところによつて察すれば、子貢の言は「己れの欲せざる所は人に施すこと勿れ」と孔夫子の教へられた処と、何処かに異るところがあるやうに思はれる。単に、己れの欲せざる処を人に施さぬ、といふことだけのことならば、私の如き者に取つてさへさまで行ひ難い事でも無いのであるから、それが十哲の一人たる子貢に出来ぬといふ筈無く、孔夫子が特に「賜や爾の及ぶ所に非ざるなり」などと仰せにならぬだらうと思ふのである。
 己れの欲せざる所を人に施さぬといふ事と、人が我に加へて欲しく無いと念ずることを人にも加へまいと思ふ事との間には、恕と仁との相違がある。「己れの欲せざる処は人に施すこと勿れ」といふ観念の中にあつて主眼の要素となるものは自分であるが、「我れ人の諸れを我れに加ふるを欲せざるや、吾れも亦諸れを人に加ふる無からんと欲す」といふ観念の中にあつて、主眼の要素となるものは他人である。自己を主として他人に非義を施さぬだけならば、少しく自制の念があつて「恕」の道を弁へ、極端に走る事をだに慎めば、誰でも或は容易に之を行ひ得られるやうになるだらうが、他人を主にし、他人をして非義を我に加へしめぬやうにすると共に、我れも亦他人に非義を加へぬやうになる事は、余程人格に大きい所のある仁者で無ければ到底出来ぬ業である。是れ孔夫子が子貢に対せられてすら「賜や爾の及ぶ所に非ざるなり」と仰せられた所以であらうかと思はれる。昔から「情に手向ふ刃は無し」との語があるほどで、真の仁者に対しては、如何に無理道の人間でも非義を加ふるに躊躇するものだが、身に仁の至徳を具へた英傑でないと、如何に他人をして我れに非義を加へしめざらんとしても、それはとても出来るもので無いのである。以て、仁徳の力の如何に大にして、之を体することの如何に六ケしいものであるかを知り得られるだらう。

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デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.110-118
底本の記事タイトル:二二五 竜門雑誌 第三四二号 大正五年一一月 : 実験論語処世談(一八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第342号(竜門社, 1916.11)
初出誌:『実業之世界』第13巻第19,20号(実業之世界社, 1916.09.15,10.01)