デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一

4. 言行の不一致を責む

げんこうのふいっちをせむ

(18)-4

宰予昼寝。子曰。朽木不可雕也。糞土之牆。不可杇也。於予与何誅。子曰。始吾於人也。聴其言而信其行。今吾於人也。聴其言而観其行。於予与改是。【公冶長第五】
(宰予昼寝ぬ。子曰く、朽ちたる木は雕るべからず。糞土の牆は杇るべからず。予に於てか何ぞ誅めん。子曰く、始め吾れ人に於けるや、其言を聴きて其行を信ず。今吾れ人に於けるや、其言を聴きて其行を観る。予に於てか是を改む。)
 茲に掲げた章句は、御弟子のうちでも、言論弁舌にかけては非凡の長所ありとせられた十哲の一人なる宰我(その名は予)が昼寝をして居つたのを耳にせられ、之を憤つて発せられた孔夫子の言葉であるがただ昼寝をして居つたといふ丈では、これほどに憤られさうな筈も無いから、単に昼寝をして居つたのみでなく、白昼妾宅にでも入浸りをして居つた処を見つかつたのであらうなぞとの説もある。又「昼」の字は「画」の字の誤りで宰我が寝室に卑穢な絵を画かした事を聞き知られた為に、御咎めになつたものであらうなぞとの説もある。然し、こんな風に余り微細なる点に渉つてまで詮索するのは却つて囚はれたる解釈ではなからうかと私は思ふのである。孔夫子御教訓の趣意は、宰我が言論に秀でて平常立派な事ばかりを申して居るに拘らず、行実之に伴はず、兎角言行の不一致勝なるを責められ、従来は宰我の如き立派な言論を聴けば必ず其の行実も言論の如く立派なものであらうと信じて居つたが、今回宰我の言行不一致なるを観るにつけても、大に覚る処があつたから、以後は其人の言によつて其行を信ぜず、実際の行動を見た上で人物を判断する事に致さうと仰せられたのであるらしく思へる。要するに、口ばかり達者で行の之に副はぬ人の多いのを慨かれたのがこの章句の真意である。

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デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.110-118
底本の記事タイトル:二二五 竜門雑誌 第三四二号 大正五年一一月 : 実験論語処世談(一八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第342号(竜門社, 1916.11)
初出誌:『実業之世界』第13巻第19,20号(実業之世界社, 1916.09.15,10.01)