デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一

5. 始めは言により人を信ず

はじめはげんによりひとをしんず

(18)-5

 孔夫子に於かせられてさへ、始めのうちは其の言によつて其人を信ぜられたほどのものゆゑ、況んや孔夫子ほどでも無い凡夫の我儕は、兎角若いうちなどその人実際の行為に就て碌々調べて見もせずただ僅に其人の言を聴くのみで、一寸立派げな正しさうな事を曰ふからとて直ぐ之を信じたりなぞ致す傾向のあるものである。孔夫子も経験を積まれるに随ひ、宰我の例などもあつたので言を聴いたのみで其人を信ずる事の軽挙なるに気づかれ、其言を聞いた上に其実際の行を見て、人物を判断するやうになられたものと思はれる。
 孔夫子は果して何歳の頃から斯く人物鑑別の方法を改めらるるやうになつたものか私には解らぬが、人は経験を積むに随ひ、飼犬に手を噛まれて見たりなぞすれば、浮つかり人の口車に乗つてはならぬものだといふ事に気のつくものである。真に人を鑑別しようとするには、其言を聴き其行を観た丈けでも猶ほ不満足な所のあるものである、更に一歩を進め、為政篇に於て孔夫子が「其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉ぞ廋さんや」と説かれた御教訓中にもある如く、行為のみならず行為の根本となる精神、精神の由来する安心立命の基礎にまでも観察を進めて、人物の真相を判断するやうにせねばならぬものである。さう致しさへすれば人の真相は必ず之を明かにし得られるるもので、孔夫子の仰せらるる通り、「人焉ぞ廋さんや」である。この事に就ては詳しく為政篇のところで申述べて置いたから、茲では省略する。

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デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.110-118
底本の記事タイトル:二二五 竜門雑誌 第三四二号 大正五年一一月 : 実験論語処世談(一八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第342号(竜門社, 1916.11)
初出誌:『実業之世界』第13巻第19,20号(実業之世界社, 1916.09.15,10.01)