12. 大隈伯は聞かぬ人
おおくまはくはきかぬひと
(18)-12
子路有聞。未之能行。唯恐有聞。【公冶長第五】
(子路聞くことありて、未だ之を行ふ能はざれば、唯聞くことあらんを恐る。)
子路と申さるる御弟子は、前条にも申述べたことのある通り、頗る率直な面白い仁であらせられたものだから、何事でも善言を聞いたならば、必ず之を実践するに努力せられたものらしく、聞いても行ひ得ないくらゐならば、初めから聞かぬ方がマシだといふほどの意気込みであつたので、それが茲に掲げた章句となつて顕れたのであらうかと思はれる。つまり、博聞洽識よりも実践躬行の重んずべきを説いたのが斯の章句の意である。行ひ得ざる事には決して耳を傾くるなとの意味では無いのである。(子路聞くことありて、未だ之を行ふ能はざれば、唯聞くことあらんを恐る。)
然し、聞いて直に之を実行にすると否とは別問題として、世間には好んで他人の言を聞く人と、他人の言には一切耳を傾けず自分一人でばかり喋舌つて他人に聞かせる人との二種類がある。大隈侯の如きは他人の言を聞くよりも他人に自分の言を聞かせるのを主とせらるる御仁である。よく「私は今日大隈侯にナニ〳〵の事を申上げに往つて来た」なぞと話して居る人を見かけることもあるが、大隈侯の処へ出掛けた人は自分だけは如何に申上げて来た積りでも、大抵は申上げずに申聞かせられて帰るのが例である。私なぞも時に大隈侯へ何か申上ぐるために罷出づることもあるが、その時には先づ談話を始める前に、「今日はかくかくの用件を申上ぐる為に折角罷出でたのであるから、これ丈けの事は是非御聴取を願いたい。御意見のところは当方から申上ぐる事を御聴取下された上で伺ふことに致したいから……」と斯う予め念を押して置いてそれから用件の談話に取りかかるのであるが、それでも兎角、当方の談話の終るまで黙つて聴いて居られず、中途から横道に談話を引き込んで聞かせようとせられる癖がある。それでも用件の談話に取りかかる前に、予め注意を致して聴いて下さるやうに御頼み致して置けば聞かせらるるばかりにならず、聞いてお貰ひ申すことの出来るやうになるのである。然うでないと折角御話を申上げに出かけても、何も申上げずに帰つてしまはなければならぬやうなことになつてしまふのである。
ただ大隈侯に就て感心するところは、あの通り他人に聞かせるばかりで容易に他人の談話を聞かうとせられぬ割に、他人がチヨイ〳〵と話したことを存外よく記憶して居らるることである。早稲田大学教授の塩沢昌貞博士より承る処によれば、先般、欧洲の平和克復に関する公開状説明の任務を帯びて来朝した米国人で心理療法学者として相当の学殖あるモルトン・プリンスは、大隈侯と会見する前に自分の著になつた「心理学上より観たるカイゼル」の一書を侯に贈つて置いてあつたそうだが、侯はプリンス氏と会見の際、この一書の内容に就き能く記憶し居られ、これを話題に載せていろ〳〵談論を試みられたと云ふ事である。塩沢博士の談話によれば、平素は聴かせる一方の大隈侯も、学術上の事になると余り口を出さず、神妙に他人の談話を聴かれるさうである。
- キーワード
- 大隈重信, 聞かぬ, 人
- 論語章句
- 【公冶長第五】 子路有聞、未之能行、唯恐有聞。
- デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.110-118
底本の記事タイトル:二二五 竜門雑誌 第三四二号 大正五年一一月 : 実験論語処世談(一八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第342号(竜門社, 1916.11)
初出誌:『実業之世界』第13巻第19,20号(実業之世界社, 1916.09.15,10.01)