デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一

13. 囚はれざりし西郷従道侯

とらわれざりしさいごうじゅうどうこう

(18)-13

 大隈侯が他人の言を聞かず、他人に自分の言を聞かさうとする方の極端であるとすれば、自分の言を他人に聞かさうとせず、他人の言を聞く方の頭は山県公であらうかと思ふ。山県公も稀には自分の意見が斯く斯くであるなぞと言はれることの無いでも無いが、これは稀有のことで、大抵は他人の意見を聴かうとする一方である。そこに往くと伊藤公は大隈侯と山県公との恰度中間で、他人の言を能く聞きもしたが、又自分の言を能く他人に聞かせもせられたものである。聞きつつ聞かすといふのが伊藤公であつた。
 西郷従道侯も言葉数の多くなかつた御仁で、聞かすよりも聞く方であつたが、妙な変つたところのあつた方で、能く他人の談話を聴いて居られながら、ヒヨイと其言葉の尻なんかを捉まへ「よか頼む」と謂つたやうな調子で笑つたりなぞして、軽快に物事を取扱つてゆかれたものである。兄さんの隆盛公ほどには兎ても参らなかつたらうが、別に之といふ程の学問があるといふのでもなく、著しい手腕があるといふでも無かつたのに、自然と那的だけになられて重要なる位置を占め元勲の間に重んぜられたところによつて見ても、凡人の及ばぬ偉いところのあらせられた御仁であつた事が知れる。従道侯は如何なる大事に臨んでも決して之に囚はれてしまはず、大事を旨く外して之に屈託せず、悠々自適の間に之を処置し得られた方である。何んでも、北海道辺に旅行をして居られた時のことであつたと思ふが、重要なる国事に関し協議を要する件が起つたので、当時の政府から電報を以て侯の帰京を促した。然し、大事に臨んでも之を外して軽く取扱つてゆくことにかけて妙を得て居られた侯は、この帰京の督促急電に対し、甚句の文句か何かを其のまま取つて「マトマルモノナラマトメテオクレ」との返電を発したと云ふことである。
 西郷従道侯が斯く事物に屈託せず、如何なる大事をも軽く取扱つて悠々自適してゆけたのは、名利に執着せず、至つて淡泊な所があつた為めだらうと私は思ふのである。然し、如何に名利に淡泊であつたからとて、死んだ跡から直ぐ借金取に押しかけられて遺族が困るといふでも無く、そこは又チヤンとしたところのあらせられたものである。
 如何に名利に執着せぬからとてその平素がだらし無く、諸方から借りつ放しで之を返へさうといふ気さへ起さず、葬式の翌日から遺族が他人の世話にならねば暮らせぬといふやうでは、死んでしまつた当人は兎も角もとしたところで、跡に残つたものは非常に苦しまはねばならぬ。他人の持つてる物を引つたくるまでにしても猶ほ子孫の為に美田を買はうとする如きは素より賤むべきことで宜しく無い。然し己れを全うしさへすれば其れで我事終れりと做し、遺族の為に友人やら親戚を煩はし、之に厄介迷惑をかけるやうでも亦宜しく無いのである。西郷侯は其辺の事を能く心得居られたもので、名利に恬淡なる間にも子孫が困らぬだけの計をチヤンと立てて置かれたので、侯の遺族は今日に至るも立派に暮して居らるるのみか、兄さんの隆盛公の嗣子までが侯爵に叙せられ、矢張り立派に暮して居られる。これは、素より天朝の思召より出たことに相違無いが、その間に立つて従道侯の斡旋も亦大に力のあつたことだらうと思はれる。この点なぞから稽へれば、従道侯は却々に常識に富まれた方であつたと謂はねばならぬ。磊落のやうでダラシ無くならず、物事を軽く取扱つて其で誠意があり、始終愛国の念を絶たなかつた所に西郷従道侯の特色があるのである。

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キーワード
囚はる, 西郷従道
デジタル版「実験論語処世談」(18) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.110-118
底本の記事タイトル:二二五 竜門雑誌 第三四二号 大正五年一一月 : 実験論語処世談(一八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第342号(竜門社, 1916.11)
初出誌:『実業之世界』第13巻第19,20号(実業之世界社, 1916.09.15,10.01)