デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一

1. 明敏なる人の欠点

めいびんなるひとのけってん

(19)-1

子貢問曰。孔文子。何以謂之文也。子曰。敏而好学。不恥下問。是以謂之文也。【公冶長第五】
(子貢[問ひて]曰く、孔文子何を以て之を文と謂ふや。子曰く、敏にして学を好み、下問を恥ぢず、是を以て文と謂ふ也。)
 茲に掲げた章句に挙げられてある孔文子と申すのは衛の大夫を勤めた高位高官の人で、その名を圉と称したが「文子」は諡である。この人の素行には随分非難すべき欠点の多かつたもので、一例を挙ぐれば大叔父の疾と申す人をして其妻を離縁させて置いて、後から之を横取りし、自分の妻にしたことなぞが其れである。大叔父の疾は、孔圉の斯の所置を不快に想ひ、一つ復讐をしてやれといふ気にでもなつたものか、その後、圉の初妻の姉に当る女と通じたのである。すると、圉は大層怒つて、兵を送り之を攻め殺さうとした事なぞもある。斯く道義を弁へぬ没理道の人間であるのに、猶ほ且つ諡して「文子」と崇めたのは、甚だ以て合点のゆかぬ事だと子貢は稽へられたので、その所以を斯く師匠の孔夫子に訊ねられたものと思はれる。
 成る程、子貢の稽へた如く孔圉は非難すべき欠点の多かつた薄徳の人であつたに相違ないが、孔夫子は元来其言によつて其人を棄てず、其人によつて其言を棄てずといふやうな、公平な立場からの観察を何人に対しても下さるる方であるから、仮令、孔圉には男女関係の上などで如何に非難すべき点があつても、他に又賞むべき長所があつて、天性明敏の質なるに拘らず、能く学を好んで研鑚を怠らず、身は衛の大夫たる高位高官にありながら、能く謙遜つて人言を聞き、虚心担懐な処のあつたのを賞揚せられ、圉が文を好んだ長所を挙げ「文子」と諡したのは決して不当で無いと子貢へ答へられたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
底本の記事タイトル:二二七 竜門雑誌 第三四三号 大正五年一二月 : 実験論語処世談(一九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第343号(竜門社, 1916.12)
初出誌:『実業之世界』第13巻第21,22号(実業之世界社, 1916.10.15,11.01)