デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一

3. 伊藤公の碁と文章

いとうこうのごとぶんしょう

(19)-3

 伊藤公は碁なども打たれたが、決して上手ではなかつた。寧ろ下手な方で笊碁の組だつたのだが、それでも猶ほ碁に於て己れが一番だといふ事に成つて居りたがられた方で、如何に盤を囲んで勝負が決まり御自分が敗けになつても、決して自分は碁が下手であるなぞと参つてしまはず、何の彼のと理屈を捏ねあげて、矢張自分が一番碁が上手だといふことにしてしまはれたものである。
 又、他人が起草した文章なんかを見られても、其れを直ぐ賞めて、却々巧いなぞとは決して云はれなかつたものである。其処の文字の用ひ方が什麽であるとか、それでは少し書き方が長過ぎるとか、そんな事は書かぬとも可いとか、或はもう少し何んとか書き様がありさうなものだとか、いろ〳〵と難癖をつけ、文章に於ても矢張自分が一番豪いのだといふ事になつて居らねば気の済まなかつた方である。然し、「そんなら何う訂正したら宜しからうか」と、一歩履み込んで問ひ懸けると、公は元来、文章の巧く書けなかつた仁であるから、それにはチヤンとした返答ができず、頗る曖昧な調子で、「そこはその……何とか考へて……うまく……」なぞと答へられ、確たる文案があるのでも何でも無かつたものである。
 私が御遇ひした明治維新の元勲元老中では、木戸公は下問を恥ぢずといふ態度のあらせられた方で、好んで能く人言を容れられたものである。前条にも一寸申上げて置いたやうに、公が那珂通高を太政官に採用するに当つて、当時私の住んでた湯島天神下の寓居を態々訪れられて、参議の御身を以て小官の私に那珂氏の人物に就て問はるる処のあつたた[あつた]事なぞは、確かに木戸公に下問を恥辱とせぬ美徳があらせられた証拠だと謂つても可からうと思はれる。木戸公と私が交りを致したのは極浅く、当時木戸公は漸く四十一二歳であらせられたらうが、それにも拘らず、私は今日まで御遇ひ致した顕官の方々のうちで、下問を恥ぢぬことにかけて木戸公ほどの方は無いやうに思はれるのである。前章に那珂の事を談話致す際に申残したやうに思ふから序に附け加へて置くが、那珂は素と井上侯の知合で、その縁故により大蔵省へ出仕するやうになつた人である。

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伊藤博文, , 文章
デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
底本の記事タイトル:二二七 竜門雑誌 第三四三号 大正五年一二月 : 実験論語処世談(一九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第343号(竜門社, 1916.12)
初出誌:『実業之世界』第13巻第21,22号(実業之世界社, 1916.10.15,11.01)