デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
子貢問曰。孔文子。何以謂之文也。子曰。敏而好学。不恥下問。是以謂之文也。【公冶長第五】
(子貢[問ひて]曰く、孔文子何を以て之を文と謂ふや。子曰く、敏にして学を好み、下問を恥ぢず、是を以て文と謂ふ也。)
茲に掲げた章句に挙げられてある孔文子と申すのは衛の大夫を勤めた高位高官の人で、その名を圉と称したが「文子」は諡である。この人の素行には随分非難すべき欠点の多かつたもので、一例を挙ぐれば大叔父の疾と申す人をして其妻を離縁させて置いて、後から之を横取りし、自分の妻にしたことなぞが其れである。大叔父の疾は、孔圉の斯の所置を不快に想ひ、一つ復讐をしてやれといふ気にでもなつたものか、その後、圉の初妻の姉に当る女と通じたのである。すると、圉は大層怒つて、兵を送り之を攻め殺さうとした事なぞもある。斯く道義を弁へぬ没理道の人間であるのに、猶ほ且つ諡して「文子」と崇めたのは、甚だ以て合点のゆかぬ事だと子貢は稽へられたので、その所以を斯く師匠の孔夫子に訊ねられたものと思はれる。(子貢[問ひて]曰く、孔文子何を以て之を文と謂ふや。子曰く、敏にして学を好み、下問を恥ぢず、是を以て文と謂ふ也。)
成る程、子貢の稽へた如く孔圉は非難すべき欠点の多かつた薄徳の人であつたに相違ないが、孔夫子は元来其言によつて其人を棄てず、其人によつて其言を棄てずといふやうな、公平な立場からの観察を何人に対しても下さるる方であるから、仮令、孔圉には男女関係の上などで如何に非難すべき点があつても、他に又賞むべき長所があつて、天性明敏の質なるに拘らず、能く学を好んで研鑚を怠らず、身は衛の大夫たる高位高官にありながら、能く謙遜つて人言を聞き、虚心担懐な処のあつたのを賞揚せられ、圉が文を好んだ長所を挙げ「文子」と諡したのは決して不当で無いと子貢へ答へられたのである。
「下問を恥ぢぬ」とは、平たく謂へば「知らぬ事は誰にでも聞く」といふ意味である。「知らぬ事は誰にでも聞く。自分はそんな事なんか、恥かしいとも何んとも思はぬ」と能く人は言ふが、概ねそれは口の端ばかりの事で、さて実際に臨んでから虚心坦懐に知らざるを知らずとして、如何に位置の低い人にも下つて聞くといふことは決して容易に出来るもので無い。大抵の人は知らざるを知らずとして教を他人に受けでもすれば、之によつて自分の位置が引き下げられたかの如くに感ずるものである。下問を恥ぢぬやうになるのは、却々に難かしい事である。玄徳が三たび孔明を其草廬に訪うて教を仰ぎ、又漢の高祖が張良を重用して、之に下問するを悦びとしたといふ如きは、玄徳或は高祖の如き大人物にして初めて為し得らるるのである。
故伊藤公は、あれほどの豪い方であらせられたが、矢張、下問を恥ぢずといふまでの心情になつて居らなかつたものである。否、伊藤公は何事に於ても、常に自分が一番豪い者であるといふことになつて居りたかつた人である。総じて長州人は薩州人に比すれば、人触りの穏当なものであるから、伊藤公とても決して人触りの悪かつた方では無い。至極穏当なところの仁ではあるが、それでも横合から他人が出て来て、公の知らずに居られるやうな事を知らしてあげようとでもすれば、「そんな事は遠の昔から知つてるぞ」と言つたやうな態度に出られたもので、何事につけ自分が一番豪く、自分が一番物知りになつて居らねば、気が済まなかつた性質がある。
又、他人が起草した文章なんかを見られても、其れを直ぐ賞めて、却々巧いなぞとは決して云はれなかつたものである。其処の文字の用ひ方が什麽であるとか、それでは少し書き方が長過ぎるとか、そんな事は書かぬとも可いとか、或はもう少し何んとか書き様がありさうなものだとか、いろ〳〵と難癖をつけ、文章に於ても矢張自分が一番豪いのだといふ事になつて居らねば気の済まなかつた方である。然し、「そんなら何う訂正したら宜しからうか」と、一歩履み込んで問ひ懸けると、公は元来、文章の巧く書けなかつた仁であるから、それにはチヤンとした返答ができず、頗る曖昧な調子で、「そこはその……何とか考へて……うまく……」なぞと答へられ、確たる文案があるのでも何でも無かつたものである。
私が御遇ひした明治維新の元勲元老中では、木戸公は下問を恥ぢずといふ態度のあらせられた方で、好んで能く人言を容れられたものである。前条にも一寸申上げて置いたやうに、公が那珂通高を太政官に採用するに当つて、当時私の住んでた湯島天神下の寓居を態々訪れられて、参議の御身を以て小官の私に那珂氏の人物に就て問はるる処のあつたた[あつた]事なぞは、確かに木戸公に下問を恥辱とせぬ美徳があらせられた証拠だと謂つても可からうと思はれる。木戸公と私が交りを致したのは極浅く、当時木戸公は漸く四十一二歳であらせられたらうが、それにも拘らず、私は今日まで御遇ひ致した顕官の方々のうちで、下問を恥ぢぬことにかけて木戸公ほどの方は無いやうに思はれるのである。前章に那珂の事を談話致す際に申残したやうに思ふから序に附け加へて置くが、那珂は素と井上侯の知合で、その縁故により大蔵省へ出仕するやうになつた人である。
然し又、一方から観察すれば、下問を恥ぢる傾向が人にある事は、其の人を向上させる為の動機にもなるもので、あながち一概に賤むべきでも無い。他人に下つて、自分の知らぬ点を問ひ質すやうなことになりたく無い、彼是れと他人の進言を待たねばならぬやうな身に成りたく無いと思へば、勢ひ什麽しても、自分で学に励み身を修め、智慮を周到にし智識を複雑にして、何んでも知つて居らぬといふ事は無く自分の身に非難の星を打たれる事の無いやうになつて居らねばなら無くなる。この意味に於て下問を恥辱とする精神は、人をして向上せしむる動機になるのである。されば、苟も自分に下問を恥辱とするぐらゐの精神あらば、自ら大に努め大に修養するところが無くつてはならぬものである。下問を恥ぢて而も自ら修養を怠るやうでは、その人たるや到底向上発展の見込が無いものである。
支那の人では、茲に掲げた章句の中に挙げられてある孔文子は素より申すに及ばず、漢の高祖、蜀の玄徳などが、下問を恥としなかつた人人である。下つて宋の太祖なぞも亦、下問を恥ぢ無かつた人である。宋の太祖の時代に、趙普といふ殊に論語に造詣の深い論語学者があつた。この人は、徳も却々高かつた人で、太祖は屡々駕を趙普の許に枉げ、親しく論語の教を受け、遂に趙普を挙げて同平章事とし、国事に関しては万端趙普に下問を垂れて決せられるやうになつたとの事である。そこで趙普は、その学び得て置いた論語の半分を以て先づ自分の心を磨き身を修め、残る半分を提げて太祖の帝業を助成したと伝へられる。この事は確か十八史略などにも載せられてあるやうに記憶するが、私は官途を退いて実業に従事するやうになつた際には、及ばずながら斯の趙普の心を以て心とし、学び得たる論語の半分を以て身を修め、半分を以て銀行業を営まうと決心をしたものである。
天海僧正の事に就ては、これまで申述べたうちにも一寸御話して置いたが、家康公は天海僧正に師事したもので、果して自ら駕を枉げて天海僧正に就き教を受けたものか、それとも天海僧正を召し寄せて教を聞いたものか、その辺の事までは明かで無いが、兎に角、深く天海僧正に帰依し、何につけ彼につけ天海僧正に諮詢を致し、能くその言を聞いたものである。
徳川家の菩提寺は世々三河の大樹寺で、その寺が浄土宗であつた関係より、公も亦浄土宗の信者となり浄土宗の授戒を受けて居つたのであるが、天海僧正に深く帰依するに至つてからは、僧正が天台宗である関係より更に天台宗の授戒を受けて天台宗に改宗しようとの念を懐き、之を天海僧正に詢つたことがある。すると、僧正は「授戒の事は宗門の大事であるから、迂濶に授けるわけには参らぬ」と申され、一たびは撥ねつけられた。然るに、公は之を聞いて「如何にも左様であらう」と、それから三年の間又宗門上の精進を励み、曩に授戒の事を申出でてから三年経つて後に漸く天海僧正より天台宗の授戒を受けるやうになつたといふ逸話が、天海僧正の伝記に載つて居る。之によつて見ても、如何に家康が己が心を虚うして天海僧正の言に聞き、その言を以て修身斉家治国平天下の道を講ずる具に供したかが知れようと思ふのである。
それから彼の豊臣家滅亡の端を開いた大仏開眼供養の鐘銘問題などに関しても、家康が断乎として彼の如き措置に出で、当日に至り京都所司代をして挙式を停止せしめたのは、崇伝の進意に因る所が頗る多かつたとのことである。秀頼は太閤の遺志を継ぎ、方広寺を造営し、慶長十九年落慶式を挙げることになつたのであるが、同時に巨鐘をも鋳造して、落慶式と共に其撞き初めを行ふことになつて居つたのである。ところがその鐘銘には「国家安康」の四字があつたので、この文字は「家康」を呪ふ為に鋳たものであるとの議論が崇伝及び天海などの間に起り、殊に崇伝は、この意見を固く執つて家康に進言する所があつたものだから、片桐且元が如何に弁疎しても家康は遂に聴き入れず、一旦京都所司代をして停止せしめた落慶式は飽くまでも禁止し、その結果遂に大阪冬の御陣にまでもなつたのである。家康が如何に崇伝を重んじ、之に傾聴するところがあつたかは斯の一事によつても頗る明かである。
子謂子産。有君子之道四焉。其行己也恭。其事上也敬。其養民也恵其使民也義。【公冶長第五】
(子、子産を謂ふ。君子の道四つあり。其の己れを行ふや恭。其の上に事ふるや敬。其の民を養ふや恵。其の民を使ふや義。)
茲に掲げた章句は孔夫子が鄭の大夫にして姓を公孫、名を僑、字を子産と称した春秋時代の一名物を批評せられた語で、子産は身を持すること恭倹、人に仕へて横着放縦の振舞ひなく、民に臨むや能く恩恵を施し、些たりとも無理非道の行動無く、君子の道を履んだ人であるのを称揚されたのである。かく子産のやうに恭、敬、恵、義の四つを具へて居りさへすれば、その人は確に君子人である。恭、敬、恵、義の四徳は、孰れも人に無くてはならぬものであるが、就中恭敬の徳は処世上に欠くべからざるものである。然し、遺憾ながら近日は追々と恭敬の美徳を具へた人が乏しくなり、特に青年子弟の間には動ともすれば乱暴に流れ、放縦の生活を営み、言葉遣ひなども甚だ粗野になりたがる悪傾向がある。私はこの点に就て今の青年子弟諸君に深く反省を望むものである。言行を粗暴にする事を独立自尊であるかの如くに心得たり、人に対するに恭敬を以てすれば、独行自尊を傷くるものであるかの如くに稽へたりするのは以ての外である。自分の身を下品にせず、我が心がいろ〳〵の悪習慣、私利、私慾などに囚はれず立派に高潔な品位を維持してゆくのが是れ独立自尊の真意義である。又、人は堅く恭敬の精神態度を持して人に交り世に処するやうに致さぬと、世間の後援同情を得て事業を成し遂げるやうに成り得られるものでも無いのである。(子、子産を謂ふ。君子の道四つあり。其の己れを行ふや恭。其の上に事ふるや敬。其の民を養ふや恵。其の民を使ふや義。)
私が明治の初年仏蘭西から帰つて来て新政府に仕へるやうになり、長州人なんかに交際して見ると、その態度行動に殆んど恭敬を持するやうな風が無く、同僚が私の家へ訪ねて来ても、碌々礼さへ致さぬうちから突つ立つたままで「暑いのう」と謂つたやうな調子のものであつたので、私は少からず其の人々の礼を弁へざるに驚かされたのである。苟も他人の家を訪ねたら、まづ何より先きに「今日は……」とか何とか、一応の挨拶を述べて一礼に及び、それから「什麽も御暑くつて困る」とか何うとか、時候のことにでも及ぶのが如何なる人間も守らねばならぬ礼である。然るに、突つ立つたままで碌々礼も致さずに「暑いのう」では、恭敬を欠くの甚しいものなりと謂はねばならぬ。
恭敬の念の態になつて顕れたものが是れ礼式である。早い話が、一つの膳を持ち運ぶにしても、恭敬の念を以て持ち運ばなければ、兎角粗匆を致し易く、膳に載つてるお汁を滾したり、茶碗や箸の位置を乱したりするものである。礼式作法に遵ひ、恭敬の念を以て慎しやかに膳を運べば、粗匆をする事などは滅多に無い。茶の湯の式で茶碗を取扱ふ法なぞも恭敬の念を本位にしたもので、式法通りに茶碗を取扱つて居りさへすれば、之を破損する憂なぞは万々無いものである。恭敬の念を本位とせる礼式は、人に対するに当つても物を取扱ふに当つても、又事を処するに当つても、最も安全の道である。
近頃亜米利加には「安全第一」と申す標語が流行致すそうだが、恭敬は是れ即ち安全第一の道である。恭敬の念盛んなる人には過失失敗無く、又危険も無いものである。恭敬を一概に虚偽であるなぞと稽へてはならぬ。昨今の青年子弟諸君には兎角恭敬を虚偽であるかの如く稽へて、恭敬を尽しては天真爛漫なところが無くなるなどと称して、粗暴軽卒に流れたがる通弊のある事は、大に憂ふべき現代の傾向であらうかと思はれる。恭敬は決して虚偽でない。恭敬の念は人心の真底から湧いて出る真実である。恭敬を以て人に対すれば人と親しみ得られぬかの如く想ふものもあるが、之れは至つて浅墓な卑見で、恭敬を欠いて人に親めば永い間には却つて交情を害するやうな事になる。之に反し、恭敬を以て相交ればその交情は永遠に続くものである。
恭敬は斯く処世の上に大切のものであるから、私は子や孫などに絶えず戒めて、恭敬の念を欠かぬやうに申し聞かせて居るが、昨今一般青年子弟間の風潮が恭敬を重んぜぬやうになつてるので、児孫とても私が欲する如くに恭敬の念に富んだ人に成り得ぬのは、私の甚だ遺憾に思ふところである。然し、自慢話を致すのでは無いが、世間一般の若い者に比すれば、私の児孫は多少恭敬の念に富んでるかのやうに想はれる。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
底本の記事タイトル:二二七 竜門雑誌 第三四三号 大正五年一二月 : 実験論語処世談(一九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第343号(竜門社, 1916.12)
初出誌:『実業之世界』第13巻第21,22号(実業之世界社, 1916.10.15,11.01)
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