デジタル版「実験論語処世談」[52a](補遺) / 渋沢栄一

第九十二[九十一]回 実験論語処世談
『実業之世界』第17巻第12号(実業之世界社, 1920.12)p.98-101

大宰問於子貢曰。夫子聖者与。何其多能也。子貢曰。固天縦之将聖。又多能也。子聞之曰。大宰知我乎。吾少也賤。故多能鄙事。君子多乎哉。不多也。牢曰。子云。吾不試故芸。【子罕第九】
(大宰子貢に問ふて曰く。夫子は聖者か、何ぞ其れ多能なるやと。子貢曰く。固より天之を縦して将に聖ならん、又多能也と。子之を聞て曰く。大宰は我を知る乎。吾れ少きや賤し。故に鄙事に多能なり。君子多ならん乎、多ならざるなりと。牢曰く。子云ふ。吾れ試みられず故に芸なりと。)
 此の章は処世訓としてお話するには、今の時代に当てはめる事は或は適当でないかも知れないが要するに聖徳と多能とは全然別であると云ふ事を説いたものである。子貢は孔子の十哲の一人で、其の家が富裕であつたから、孔子の生前には之を扶けて家計を補ひ、孔子の歿するや、六年間も孔子の廟に籠つて懇ろに弔ふた程の人であるが、大宰は恐らく子貢の弟子でゞもあつたらうか。
 此の大宰といふのは官名で大夫の職である。人の名ではない。其の当時大宰の官に在る人、子貢に問ふて曰ふに、孔子は何事にても知らざる事なく、何事にても能くせざる事がない。斯く多能であるから聖人と謂ふ可き人であらうかと聞いた。蓋し大宰は多能なるを以て聖なりと考へ、又孔子の盛徳を知らずして只其の多能なるを見て聖人であるかと問ふたのである。子貢之に答へて言ふに、我が夫子は固と天より無限の才徳を与へられた人であるから殆んど聖人であらう。たゞ聖人である計りでなく又多能なる人であると、大宰の徳と多能とを混交せる問に対し、徳と多能とは別であると之を区別して答へたのである。
 後日に至つて孔子が此の話を聞いて、彼の大宰は能く我を知れる者であらうか。吾の年小き時は卑賤の身分であったから微細の事に習ふて之に多能なる事を得たのである。されば大宰の我を多能なりと称するのは能く当つて居る。併しながら、君子は必ず多能なるべき者であるかといへば、君子は徳あるを以て貴しとし、多能を以て君子とは為さぬのであると語られたのである。前句子貢の答へて「殆ど聖ならん」と言へるは、謙遜して敢て臆断しなかつたのであるが、孔子も亦自ら謙して、身分が低かつた為めに微細の事に通じたのであると言ひ、且つ大宰の認めて聖となすの誤りを正されたのである。
 牢曰く以下は、孔子の門弟子牢が、曾て親しく孔子より聞ける所を記したものであつて、孔子が、「吾は時君に用ひられざるが故に多く技芸を習ふて之に通じて居るのである」と曰はれたのを此に記したのである。孔子は実に天下国家を治むる程の聖人であつた。而かも王道は言ふも更なり。文学、法度、音楽、歴史其他何事にも能く通暁して居つた。孔子の如きは今の世に得難い聖人にして而かも多様なる人であつたが、自らは頗る謙遜して常に斯くの如き態度であつたのは後人の大に学ぶ可き点である。
 言ふ迄もなく多能の人と聖人とは全然区別さる可きものである。仏教で言へば、其の徳に依つて如来、菩薩といふ様な階級的尊号がある如く、吾々人間の間にも其の智徳の如何によつて智者、仁者、聖人の区別がある。而して聖人は其の人格に於て欠点なきのみならず、政治上なり、教育上なり、将た哲学上なりに就て社会の為めに貢献する処ある人でなければならぬ。孔子は、聖といふ事に就ては余程高い処に其の標準を置いて、如何なる人に対しても、容易に之れを許すことが無かつたが、夫れ丈け自ら持するにも能く法に適ひ、勗めずして克く道にかなつて居つた。
 之を今の時代に比較すると、其間文物制度が異つて居り、時勢が非常に違つて居るから、直ちに取つて以て今の時代に当て嵌めて説き明かすことは難かしいが、要するに人格が高潔にして徳も高く、而かも達識の人を指して之を聖人と称へる事が出来よう。然し今の世に果して聖人に比すべき人が居るであらうか。挙世滔々として功利に奔り、道徳は漸次頽れんとして居る傾向のあるのは、実に遺憾千万の事と言はねばならぬ。
子曰。吾有知乎哉。無知也。有鄙夫。問於我。空空如也。我叩其両端。而竭焉。【子罕第九】
(子曰く、吾れ知ること有ん乎。知ること無き也。鄙夫有り。我に問ふ。空空如たり。我れ其の両端を叩き。而して竭す。)
 此の章は孔子が人を教ふるに懇切にして、決して倦まないといふ事を書いたのであつて、当時の人が孔子の知らざる所なく、誨へて倦まざるを称する者があつたので自問自答して曰ふ。自分は果して知識多い者であるか、自ら省るに、自分は実に知識が無い。たゞ人を誨ふるに於ては必ず之れを懇切にして、つまらぬ人が来て、つまらぬ事を問ふことがある場合に於ても、其の問ふ処の事物につき、其の始終本末を説き、逐一説明して尽さゞる所がないと。
 之れ即ち孔子の徳の高い処、人格の高い処であつて、孔子の眼中には実に貧富貴賤の差別がなく、如何なる賤しい人に対しても所謂一視同仁に接し、其の問ふ処の愚にもつかぬ事であつても、或は之を積極的に或は之れを消極的に説かれて少しも倦むことがなかつたのである。空空は悾悾に等しく無知の貌をいふもので、両端とは事物の始終本末を謂ふのである。
 自分自身の事を申すのは或は自慢らしく聞えるかも知れませぬが、私は常に孔子の此の心を以て人に接し事に臨んで居るのである。私は此の老齢であるけれども、毎朝、少くも十人位の訪問客の来ぬ日とてはない。而して或は望まれ、或は問はれ、或は依頼され、其の要件は雑多であるが、私は遅くも朝六時半には起きて入浴し、書信に一通り眼を通し七時半に食事が終る。其の食事前から訪客が待つて居るので、直ちに御面会するのであるが、其の訪問客の内には予め電話を掛けて打合せの上見えられる方もあるけれども、突然尋ねらるる人もあるし、始めて御会ひする人も多く、時には新聞雑誌記者が意見を聞きに来る。
 斯ういふ風なので、其の要件も各種各様に亘り、中には事業についての意見を問ふ人もあるし、寄附金の勧誘もあり、海外に赴くに就ての紹介や斡旋、就職の依頼等を始めとして遽かに数へ切れないが、私を利用しようとして訪問さるゝ人も尠くない。加ふるに其の日に依つては訪客の半数位は全然未知未見の人である事も往々あるが、従て面会して見ると所謂空空如たるものもある。併し私は如何なる人に対しても時間の許す限り面会をして居り、又其の要件については成る可く解決を与へてやる方針を採つて居る。
 要件が一様でないから、中には即答の出来ぬものもあるし、又訪問者の意志を満足せしむる事の出来ぬ様な場合もあるけれども、私自身としては、先づ自分の良心に問ふて判断をするを常とし、忠恕、親切及び自分の主義に照して欠くる処なく違ふ事なきを期してゐる。されば此の判断に従つて私の意見を述べ、若し先方に間違ひがあれば之を正し、一時は私が賛成せぬ為め、不足を言ふ人があつても、其の人の将来の為め、之に大にしては社会人類の為めに、自分の信ずる処を卒直に陳べて、誤りなからしめようとしてゐるが、私は之れを人間の当然の務めとして実行して居るのである。たゞ斯くの如く訪客に面会する事が多い為めに、時には多少約束の時間に遅れる様なこともあるのは誠に申訳がないと思つてゐる次第である。
子曰。鳳鳥不至。河不出図。吾已矣夫。【子罕第九】
(子曰く。鳳鳥至らず。河図を出さず。吾れ已むぬるかな。)
 鳳は霊鳥であつて、舜の時に来儀し、文王の時岐山に鳴いたと古書に見える。河図落書が自然に出たといふ古事は聖代の瑞祥と称さるゝ処のものである[。]此の頃は恰かも春秋の時代であつて、諸侯が各地に割拠して専制至らざるなく、聖王賢君現はれずして政治が廃れ、道徳衰へて地を払ふに至りしを以て、孔子歎じて曰く。「鳳は霊鳥にして聖人位に在れば来りて鳴き、又河より図を出すと聞く。然るに今は鳳鳥も来らず河図を出だすことも無ければ、聖王のない事を知る可きである。上に聖王なければ能く我が道を用ふるものがない、嗚呼道は竟に行はれざるか。」と。蓋し政道が頽れ、自己主義の人計り多くなりて、孔子の道の広く世に行はれざる有様を見て、吾已矣夫と嘆息の声を発せられたのである。
 孔子は六十八歳にして天下を治むる事に就て考へる事を断念し、専ら教育に向つて力を注ぐ様になつたのであるが、此の章は恐らく孔子六十八歳以後の事なるべく、一説には孔子自らが帝王たるを得ざるを嘆ずと説く者あるも、夫れは誤りにしてたゞ明王の興らずして、孔子の道の行はれざるを嘆じたのである事は、前に述ぶるが如くである。
 翻つて今日の我が国の状態を見るに、或は鳳鳥来るやも知れず、又河図を出すかも知れぬが、一面より見れば、人心が一般に我利的、利己的になりて、真に国家社会を思ふ者は甚だ少ない様に思はれる。而かも知識は駸々として進み其の停止する処を知らざるに反比例して、道徳が段々廃れて行く様に思はれるが、斯かる傾向は誠に慨しいものであると謂はざるを得ない。
 所謂思想界一般の気風は、今や混乱して帰嚮する処を知らぬ有様である。之と共に犠牲的精神とか、忠恕、謝恩等の感念が漸次薄らぎて今や其の跡を絶たんとしてゐる。「吾れ已むぬるかな」とは決して言はぬけれども、今にして大に顧る処がなければ、或は後日に悔を貽すことなきを保し難きを以て、為政者は勿論、一般世人は今日於て大に考ふ可きであると思はれる。
 ▽誰であつたか、孔子、孟子、釈迦の気質を三杯酢を食つた際に譬へて、孔子は、有りの儘に酸つぱい顔をし、孟子は苦い顔をし、釈迦は甘さうな顔をするといつたと覚えてゐるが、確かに穿ち得た言であると思ふ。孔子は仁を以て本とされたが、七情の発動が自然に叶ふて、其間に少しの虚偽がない。実に天真爛熳である。
 ▽私は後進に説くに常に孔子の訓へを以てする。人情日々に軽薄となり、我利的、唯物的に傾いて来た今日、私は一層孔子の訓への尊さと其の普及の必要とを痛切に覚える。然るに世間には往々孔子の訓へを時代遅れとなし、之を非難される人もあるが、若し道徳が全く地を払ふに至つた際の社会を想像すれば、私は其所に物質万能化したる忌むべき幻影を観る。
 ▽論語は、活きた学問である。処世の羅針盤である。論語の精神を体得して世に処するならば、如何なる方面に携はるも立派な人格として信頼さる可く、又自ら顧みて何等の精神的不安なきを得るであらう。私は深く之を信ずるが故に、旧思想なりと嗤ふ人もあるが、論語を座右の宝典として居る次第である。
底本(初出誌):『実業之世界』第17巻第12号(実業之世界社, 1920.12)p.98-101
底本の記事タイトル:第九十二回実験論語処世談 / 子爵渋沢栄一
*「渋沢子爵談片」はp.101に別枠のコラムとして掲載されたもの。