デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.184-192

子曰。孟之反不伐。奔而殿。将入門。策其馬。曰。非敢後也。馬不進也。【雍也第六】
(子曰く。孟之反伐《ほこ》らず。奔りて殿す。将に門に入らんとするや、其馬に策ちて曰く、敢て後れたるに非ず、馬進まざる也と。)
 兎角常人は、軍の進む時には殿となつて成るべく後れたがり、又軍の退く時には成るべく前鋒となつて早く逃れんとしたがるもので、退軍に当つて殿となり、進軍に当つて先鋒たるは常人の難しとする処である。されば兵法では、引揚げ方の上手な人を名将として居るが、魯の大夫孟之反は哀公の十一年に斉と戦つて魯軍が大敗し、引揚げて逃げ還らんとするに際し、自ら其の殿となり、能く追撃軍を捍ぎ、全軍を衛つて無事に退却するを得せしめたのであるから、非凡の名将と称して差支無いのである。然るに、この人は元来非常な謙遜家であつたので、毫も自分の才能功績を誇らうとはせず、魯都の城門に入らんとするに当り、俄に馬の尻に鞭を当て「私が強ひて後れて殿したのでは無い。馬が疲労して進まなかつたので遅れたのだ」と、殊更に申したといふ事を孔夫子が聞き伝へられて、孟之反の斯く沈勇に富んだ謙遜の態度を称讃せられたのが茲に掲げた章句である。
 兵法に於て引揚を上手にやる大将が名将で、真の勇者であるとせらるる如く、事業界に於ても亦、損勘定を精細に取り賄つて、後始末をチヤンと付け得らるるやうな人で無いと、真の事業家であるとは謂へず、又斯る人で無いと決して事業に成功するものでも無いのである。私は平素常に這的意見を以て事業に当り、及ばずながら事業界に於ては奔りて殿する底の心懸けを以て、今日に至つた積りである。
 総じて事業を起すに当つては、最初が大切なもので、拙速を尊ぶ事は宜しく無い。甚だ危険なものだ。仮令、着手が少しばかり遅れても関はぬから、充分綿密に調査もしたり、稽へもしたりした上でこれなら間違ひは無からうといふ処で漸く着手し、丹精して事に当りさへすれば大抵の事業は成し遂げ得られ、大過無きに庶幾きを得るものだ。然し、それでも世の中には不時の出来事といふものがあつて、最初には思ひも附かなかつた意外な故障を突発し、事業の進捗に障害を与へたり、又当事者の方にも不行届の点などがあつて、事業が予定通り旨く進行せず、損失を招くに至る場合が無いでも無い。斯る際に奔りて殿し、損勘定を精細にして始末を旨く付け得られる人が真の事業家といふもので、斯る人は仮令その事業で失敗しても、結局、成功者に成り得らるるものである。
 私が今日までも生涯にも関係した事業の上に、途中で意外の故障が起つた為に、奔りて殿せねばならぬやうな場合に立ち至つた例も決して稀では無い。損勘定を精細に為し得る人物で無ければ、事業家として成功し得らるるもので無いといふのが私の抱懐であるから、私は自分の関係した事業が如何に悲境に瀕しても、三十六計逃ぐるを上策とすなぞと、跡は野となれ山となれ我が関する処に非ずとして、逸早く逃げ出すやうな事は決して致さず、最後まで踏み留つて、その事業の為に尽して来た積りである。最も古い一例は、私が第一銀行を起した際に発行して置いた銀行紙幣が陸続金貨との引換に遭ひ、銀行が殆んど立ち行か無くなつた時に当つて私の取つた態度である。これまで談話したうちにも述べてある如く、明治五年に発布になつた銀行条例は素と私の起草したものであるが、この銀行条例により、銀行に紙幣発行の特典を与へ、旧禄奉還の賠償として下附された金禄公債証書を士族に其のまま持たして置いては、或は之を売払つてしまつて費消し、衣食に窮するに至る結果、旧士族が今日の所謂社会主義者の如き乱民と変じ、国家の安寧を害するやうになりはせぬだらうかとの心配よりり、この金禄公債証書を資金として醵出させ、銀行を設立し、紙幣発行の特典より生ずる利益其他を配当し、士族に衣食の道を得せしむる趣意から、当時設立を見るに至つたのが数字を冠字とした国立銀行で第十五銀行でも第三銀行でも、素は皆旧禄の賠償として政府より下附された士族の金禄公債証書を資本にして設立せられたものだ。かく数字を名称にした銀行は其の初め「第何国立銀行」と称せられたもので前条にも一寸申して置いたこともある如く、金禄公債証書を政府に供託すれば、銀行紙幣を下附せらるる特典があつたのだ。この銀行紙幣は完全なる兌換券であつたので、愈よ銀行が其業務を開始してみると為替相場の関係上、陸続金貨との引換を要求せらるる事になつたのである。
 当時、日本は金貨本位であると称して居つたが、元来金が少く、実際は金貨国で無かつたものだから、斯く陸続金貨との引換を要求せらるる事になれば、私の設立した第一国立銀行は素より、当時既に設立せられて紙幣を発行して居つた他の三銀行、即ち横浜の第二国立銀行新潟の第四国立銀行、鹿児島の第五国立銀行もみな紙幣を金貨に引換へて渡さねばなら無くなり、当時の四国立銀行は金貨の吐出口であるが如き観を呈し、明治七年に百三十万円あつた銀行紙幣は翌八年の春には二十三万円に減少し、私の第一国立銀行だけでも一ケ月の引換高十三万円にものぼり、遂に四銀行合して発行紙幣の流通額が総計で僅に一万七八千円にまで減少したのである。
 斯る状態では国立銀行の設立は殆んど無意義の如くなり、銀行は紙幣の発行によつて毫も利益に浴し得られぬのみか、金塊の買入を行ふ為め歩さへ打たねばならず、その極廃業するより外に道が無くなつてしまつたのである。当業者中にも「これでは冗々しいから廃めてしまはうぢや無いか」との意見が勢力を得て来たのだが、廃めては又金融の便利が杜絶してしまひ、折角銀行を設立した骨折が無駄になる。
 一体、四つか五つ銀行の力で日本の兌換制度を維持してゆけるものと思つたのが、抑〻の考へ違ひで、初め銀行条例を制定するに当つて金銀比価の変動や外国為替相場の事を念頭に置かなかつたのが、私としても政府としても大なる手抜かりであつたのだが、今更如何とも致方は無い。さればとて、みな銀行を廃業して了つては、勿論金融に障害を来す事になるから、私は飽くまでも当業者間の廃業意見に反対し自ら奔りて殿たるの決心を固め、学理上より視れば甚だ以て不合理のことたるのみならず、自分が与つて立案したものを自分で改めてもらはねばなら無くなつたのは、実に不体裁の事であるとも思つたが、孟子も曰うて居らるる如く、一車の薪に火が付いてしまへば、一杯の水では到底消し得らるるもので無く、四五の国立銀行が如何に力んだからとて兌換制度を維持してゆけるもので無いとも考へたので、私は同業者の廃業意見を鎮撫するに力むると共に、政府に向つて力説し、遂に明治九年八月に至つて銀行条例を改正させ、銀行紙幣は必ずしも金貨と引換へるに及ばず、当時の流通貨幣たる政府紙幣(不換紙幣)或は銀貨との引換でも差支無い事にしてもらつたのである。私の斯の改正意見を容れて銀行条例の改正を断行してくれた方は、当時の大蔵卿であつた大隈侯である。その時に松方侯は大蔵大輔であつたと記憶する。
 銀行条例の改正によつて既に設立せられてをつた銀行は廃業せずに済み、其後陸続数字を冠せた(大阪だけは浪華銀行)国立銀行の設立を見るに至つたのだが、世間には大隈侯が這的銀行条例改正を断行したからとて侯を非難する人もある。然し、当時の事情はこれ以外に法の無かつたもので、私は此の間に立つて些か奔りて殿たるの働きをした積りであるが、謙遜して言へば、当時かくしてもらうより他に法が無く止むを得ず私は斯る運動をしたのであるから、「敢て後れたるに非ず、馬進まざる也」であつたとも謂へる事になるだらう。
 私の関係した事業で関係者が総て皆逃げてしまつて、私ばかりが唯一人取り残され、奔りて殿した為にその事業が復活し、今日頗る隆盛の域に達して居るものが無いでも無い。その最も著しい例は資本金一千二百五十万円(内払込八百四十三万七千五百円)の大日本人造肥料株式会社である。然し、設立当時は斯る大資本の会社で無く、僅に廿五万円の微々たる会社で、私の外に益田孝氏だとか、大倉喜八郎氏だとか、浅野総一郎氏だとか、安田善次郎氏だとか、総て私の友人ばかりが寄り集つて創設したものだ。
 既う三十年も前になるが、明治二十年の頃である、高峰譲吉博士が大学を卒業したばかりで未だ米国へ渡らぬ前、一日私を訪ねて来られて、切りに人造肥料の効能を説かれた。即ち従来日本に行はれて居る人糞とか堆肥とかいふやうな肥料は、恰も漢法薬の草根木皮の如きもので、効果があるにしても糟が多いから何うしても効果が薄い、依つて漢法薬をランビキにかけた西洋薬を用ひるやうに、肥料の方でも肥料の成分だけをランビキにして調合した人造肥料を用ひねばならぬ、殊に日本の如く土地の面積が狭くつて、集約農法によらねばならぬ国土では、今後人造肥料の使用を奨励する必要があるといふのが高峰氏の説であつたのである。私は之を聞いて、如何にも至極尤もの説であると思つたのだ。米国の如き土地の広い国では大農法により器械を用ひて耕作し、僅かな面積から多くの収穫を挙げる勘考をするよりも、何んでも拘はず広く耕し大きな面積で多くの収穫を挙げることにするのが経済的なるやも知れぬが、日本の如く土地の面積に限りのある国土では、些かな面積の土地をも忽にせず、之を綿密に耕作し、収穫の増加を計ることに骨折らねばならぬものであると丁度その頃私も考へて居つた際とて、高峰氏から独逸で人造肥料の使用が盛んであり、英国でも亦盛んに成りかけつつあると聞いては、高峰氏の説に賛意を表し人造肥料会社を起すのが国家の為に有益な事業である上に、事業としても将来必ずや有望なものであらうと私は思つたのである。
 依つて私より斯の企てを友人等に相談して見ると、二十五万円ばかりの会社で、別に大した大事業だといふのでも無く渋沢が素と百姓で高峰が現に化学者――この二人で可いと思ふ事なら肥料の製造を始めるのも面白からう、屹度旨く行くだらうといふので、愈よ人造肥料会社を設立することになつて出来あがつたものが、今の大日本人造肥料株式会社である。恰も其年に益田孝が洋行することになつたので、高峰氏は益田と同行して洋行し、人造肥料の製造に必要なる機械及び硝酸などを買ひ込んで持ち帰り、欧洲諸邦に於ける工場の状態なども視察して帰つたのである。
 人糞とか堆肥とかいふやうな、別に金銭を出して買はずとも得られる肥料は古来「駄肥」と称し、鯟糟とか油糟とかいふ如き金銭を出して買はねばならぬ肥料は「金肥」と称して居つたものだが、日本で従来金肥を使つてる土地は高く売れる農作物を産出する地方だけ故、人造肥料を製造して之を売出すに就ては、従来金肥を使ふ事に慣れた地方へ先づ売捌く工夫をするに限ると思つたものだから、私は青年の頃藍の商売に関係して居つたところより、一つ藍の耕作を為る地方へ送つて試験をするが可からうと考へ、会社設立の初年に製造した肥料は第一着に藍の産地たる私の郷里と房州とへ送り、又一方に於ては越後方面へも送つてみたのである。
 ところが成績甚だ不良で、房州の方からは一寸の効能も無いと言つて来るし、越後の方からは、従来使用した胴鯟は同じ金肥でも耕地に刺し込んで置けるから、雨があつても流れる心配は無いが、人造肥料は雨が強いと流れてしまふから効能が無いというて来るなど、四方八方から非難攻撃の声ばかりで、設立当所の一年は散々な不結果に終つてしまつたのである。然し後日になつて高峰氏に就て訊してみれば、房州の藍産地に送つた肥料が効果の挙らなかつたのは寧ろ当然の事であつたのだ。
 人造肥料にもいろいろ種類があつて、作物の種類に応じ、肥料の種類をも変へてゆかねばならぬ。藍に施す肥料は過燐酸肥料では駄目なもので、窒素肥料で無ければならなかつたところを、素人の悲しさそんな事は頓と御存知無いもんだから、何んな作物へでも過燐酸肥料を施しさへすれば効果のあるものばかり思ひ込み、私は房州だとか私の郷里だとかの藍産地へ、新しく製造した過燐酸肥料を送りつけてしまつたのだから、如何に施して試ても効果の顕はれて来ぬのは当然のことで、愈〻効果が無いといふ報告に接してから之を高峰氏に話すと、若し当初から藍の産地へ送つて藍の肥料にするのだといふ事さへ知れて居れば、過燐酸肥料とは製造法を異にする窒素肥料を製造して送るやうにしたのであつたのにといふことであつたのである。それやこれやで、当初の一年は全く失敗に終つてしまつたところへ又一つ困つた問題が湧いて来たのだ。
 前回に申述べて置いたやうな次第で人造肥料会社初年の成績は散々な失敗に帰してしまつたのだが、運の悪い時には飽くまで運の悪いもので、創立の翌年には又、会社が火事に罹つてみな焼けてしまつたのである。これにも大に閉口して居る処へ、更に高峰氏の米国行問題といふものが持ち上つて来たのだ。創立以来三四年、それでも事業は毫も順境に向ふ模様無く、何事も是れからだと思つてる矢先へ、肝腎要の高峰氏に逃げられてしまつては前途が全く暗黒になつてしまふので私は随分酷く高峰氏に向つて苦説し、極力同氏の米国行を引き止めようとしたが、米国との約束があるので、何うしても渡米せねばならぬといふのだ。人造肥料会社の方は二三年もしたら形が付くものだと思つて、アルコール醸造の事か何かに就ての研究を始める為米国への渡航を約束して居つたのださうである。その約束の期限が近づいて来たので、同氏は愈よ出発せねばならぬ事になつたのだが、折角着手した事業を半途に棄てても渡米せねばならぬほどのものなら、何故当初斯んな事を始めるやうに私へ勧めたか、なぞと激しく小言を言ひもしてみたが、又退いて大局から稽へれば、同氏一身の為にも亦国家の為にも、此際高峰氏を快く放してやつて渡米さするのが私の取るべき道であらうかとも考へたので、私も遂に決心し、同氏の請ひを容れて渡米させ、その志す処に向つて進ませる事にしたのである。
 然し、高峰氏に去られてしまへば技師がなくなるので、翌日から直ぐ会社は困らねばならなくなる故、誰か同氏に代るべき適当の技師があるだらうかと同氏に相談すると、西ケ原の試験所に勤めて居る森氏が宜しからうとの事で、同氏を高峰氏の後任とし、私も安心して高峰氏を渡米させることができるやうになつた。
 高峰氏の渡米後も依然として会社の事業は思はしく無い。欠損に次ぐに欠損を以てするばかりであるから、初め私と協同して人造肥料の事業を始めた友人等も、遂に会社を廃めてしまはうといふ意見になつたのである。然し、私には飽くまで斯の事業を成功させねば已まぬといふ決心があつたので、協同者が皆廃めてしまはうといふ意見なら、仕方が無いから私一人で会社を引受け、借金しても必ず成し遂げて見せるからと申出で、結局私が一人で会社を引受けることになつた。これといふのも、損勘定を旨く整理し得るもので無ければ真の事業家で無いといふのが、私平素の意見であつたから、斯る難局に立ちながらも私は奔つて殿する覚悟をきめたのである。私が愈よ一人で引受けるといふ段になつてからも、友人等は危んでいろいろと心配もしてくれたが、幸にも創立後六年目ぐらゐの頃から、会社は漸次順境に向ひ、遂に今日の盛大を見るに至つたのである。
 人造肥料では前条にも一寸申して置いた通りで、燐酸石灰に硫酸をかけて過燐酸肥料といふものを作ることになるのだが、窒素肥料と称せらるるのは、窒素分を多く配合したもので、一名完全肥料とも称せられる。孰れにしても人造肥料の製造には硫酸を多く使用することになるのだが、従来私の肥料会社は硫酸を他から購入して使用して居つたのだ。それでは原料が高価につき、会社の利益が尠なくなるので、私が一人で会社を引受けるやうになつてからは却て積極的方針に出でて資本金を増加し、硫酸を会社自身の工場で製造して使用し、他より購入せぬ事にしたのである。それが会社の利益を増進し、会社を順境に向はしむる原因の一つにもなつたのである。大日本人造肥料会社の事業が順境に向ふと共に、其後続々人造肥料会社の設立を見るに至つたが、昨今では硫酸の取れる鉱石の鉱山所有者で人造肥料会社を経営して居らるる人が尠くない。
 高峰譲吉氏は大日本人造肥料会社を辞して渡米してから、四五年は随分彼地でも苦んださうである。当初渡米の目的であつたアルコール醸造に就ての発明の方は、何うも旨く行かなかつたらしいが、其の研究に従事中、偶然にも血止め薬と、彼の有名なタカヂアスターゼと其外にも何か新薬を発見したので、米国デトロイトの製剤家バーク・デビスが之を聞き込み、製剤して売り出したところが売行が頗る良好で何れも世界的の新薬になつたものだから、歩合のところまでは私も承知して居らぬが、兎に角それから揚る利益金の歩割が高峰氏の収入となり、同氏は之によつて産も作り、又世界的に有名な人となり、成功者を以て目せらるるにも至つたのであるが、博士になつたのも、これ等の新薬を発見したからである。
 高峰博士は至つて温厚の人で、元来は学者であるのだが、又事業を所理してゆける才もある。世間に所謂学者肌とは少し違つた趣のある人物で、人に接しても肌ザハリが佳く、極端に走つて他人と争ふやうな事は決してしないのが同博士の特色である。然し、如何に事業を処する才があるからとて、快刀乱麻を絶つといふほどのテキパキしたところは無い。これといふのも畢竟、素が学者であるからだらうが、同博士の気分のうちには何処かハッキリせぬやうな処がある。
 私と高峰博士とは、斯んな関係で大日本人造肥料会社創立以来の懇意な間柄であるものだから、五年前帰朝した際にも私を訪ねて来られいろいろ懐旧談を重ねた末、同博士より日本目下の急務は理化学研究所の設立であるとの話が出た。
 高峰博士が其時に私へ説かれたところは、今日までの世界は理化学工業よりも寧ろ器械工業の時代であつたが、今後の世界は必ずや機械工業よりも寧ろ理化学工業の時代になる。その徴候が既に欧米諸国の工業界に顕然と現れて来て、理化学工業の範囲が漸次に拡大せられ、独逸の如き夙に斯の点に留意し、帝室より二百七十五万円ばかりの下賜金があつて、之に民間よりの寄附金を併せ総計一千二百五十万円の資金を以つて、ウヰルヘルム第一世帝の百年祭に際しウヰルヘルム皇帝学院と称せらるる一大科学研究所を設立し、日本人でも田丸節郎といふ学者が斯の皇帝学院に勤務し、窒素と水素とを人工で化合さしてアムモニアを製造することや植物の葉緑素に関する研究をして居る。又米国にもロックフェラーが二千万円を投じて設立したロックフェラー研究所やら、カーネギーの設立したカーネギー研究所があり、英国でも昨今は漸く之に気付いて科学研究所の設立に鋭意して居る。日本も今後理化学工業によつて国産を興さうとするには、何うしても之が基礎となる純粋理化学の研究所を設立せぬばならぬといふのが高峰博士の意見であつたのだ。
 殊に日本人は模倣に長じては居るが、独創力に乏しいと云ふ弊がある。この模倣性に富んだ国民の傾向を一転して独創力に富んだものとするには、純粋理化学の研究を奨励するより他に道が無いから、是非とも理化学研究所を日本へ起すやうに致したいといふのが高峰博士の希望で、私も至極尤もの次第であると考へ、賛意を禁じ得無かつたところより、其後中野商業会議所会頭とも相談の上、実業界の名望家一百二十名ばかりを一夕築地精養軒に招待し、高峰博士より理化学研究所設立の急務なる所以を述べ、私より之が設立に関する方法を来会者一同に謀つたところが、素より不同意のあらう筈が無いので、私が来会者一同より創立委員指名のことを托せらるる事となり、私に於ても熟慮の末適任者を指名し、之に設立事務の進行を委任し、その結果四年後の今日に至つて漸く実現を見るに至つたのが、目下成立中の理化学研究所である。
子曰。不有祝鮀之佞。而有宋朝之美。難乎免於今之世矣。【雍也第六】
(祝鮀の佞ありて宋朝の美あらずんば難いかな今の世に免れんこと。)
 祝は宋廟を司る官名であるが、この官に昇任した衛の大夫鮀は、名を子魚といつた人である。それから宋朝といふのは、名を朝と称した宋の公子である。祝鮀は弁才に長じた佞人であつたのだが、宋朝は容貌の美しかつた是も亦佞人であつたのである。孔夫子は当時の世の中が徒に畳ザハリの佳い、見たところ立派な風貌のある人ばかりを歓迎するに急で、弁口の拙な、見るから威さうな人はその人物の真価如何に拘らず、之を尊敬して重用する者が無いのに深く歎ぜられ、時勢の日々に益〻非なるを諷し、弁才と美色が無ければ迚ても渡つて行けぬ世の中になつて来たと言はれたのが、茲に掲げた章句である。
 孰れの世、如何なる人物でもゴツゴツした無骨の人よりは、畳ザハリの好い方の人を好むものであるが、殊に斯ういふ傾向は戦国時代に於て著しいかのやうに思はれる。その又戦国時代に於ても、豪傑肌の小事に頓著せぬやうな人に、不思議と弁才に長じた容色の優れた者を悦んで近づける性癖がある。秀吉が石田三成を愛して近づけたのも実に之が為で、秀吉の三成に対する心情は、無骨で正直真向であつた加藤清正なぞに対する心情と、其間に余程大きな距離のあつたものと思ふ。若し仮りに三成が加藤清正の如き無骨者で、容貌なぞも見るから鬼の如き男であつたとしたら、秀吉もあれ程迄に三成を寵愛するには至らなかつたらう。三成は或は全く秀吉に用ひられずに終つて了つたかも知れぬ。
子曰。質勝文則野。文勝質則史。文質彬々。然後君子。【雍也第六】
(子曰く、質、文に勝てば則ち野、文、質に勝てば則ち史。文質彬々、然して後に君子なり。)
 茲に掲げた章句は、人に於て外形と内容とが常に平行して居らねば之を称して立派な人物であると謂へるもので無い事を、孔夫子が御説きになつた教訓である。如何に内心が高潔で立派な精神の人物でも、その外部に顕はるるところが多く礼を欠き、外形が精神に副はぬやうではその人は野蛮人に等しいもので、その質樸も余り賞めたもので無い。之に反し、内心が野卑劣等で、汚陋の心事を蔵するに拘らず、外形ばかりは旨く繕つて美しく見せかけ、精神が外形に負けてるやうでも是又決して賞むべき人物で無く、それは恰も心にも無い美辞を聯ねて書くのを職として暮らす支那の史官と同一轍である。依つて、人は文も質も揃つて平行した人物にならねばならぬもので、斯くあつてこそ始めて人は君子の称を得らるるやうになるものだといふのが、斯の章句の趣意である。「文」とは外形に属する威儀文辞の意で「彬々」は過不足無く、物の程よく揃つた態を形容した言葉である。
 孔夫子の偉大なるところは、その文質彬々として文も質も能く揃ひ一方の極端に流れられなかつたところにあるのだが、常人は兎角、文か質かの一方に偏し易くなるものだ。礼に流れて阿諛に陥つたり、節倹を重んじて吝嗇になつたりするのもみな、一方に偏する弊の致すところである。その反対に又、阿諛が悪いからとて、倨傲に流れて不遜の態度に出で、人が善事に励むを見ても之を悉く偽善者であると罵つたり、又吝嗇が悪いからとて金銭を湯水の如くに使つて、之を金銭に淡白なる所以であると心得て誇つたりする如き人物になつても困る。質に流れず文に走らず、文質彬々として過不及の無いのが則ち真の紳士といふもので、之が君子であるのだ。西郷隆盛公なぞはどちらかと謂へば質が文に勝つて野に陥る気味のあつた方で、伊藤、木戸、大久保等の諸卿は文質の彬々たる所のあつた人々であるとも謂へる。
 概言すれば、当今の若い人たちには質が文に勝つよりも、文が質に勝つて、外形の優れた畳ザハリの佳い者が多く、殊に青年には物質的に流れて精神の空虚な輩が多いやうに見受けられる。之には種々の原因もあらうが、東洋道徳に対する趣味が欠乏して来て、ニーツェの道徳論を理解しても、論語の道徳説が納得せられぬやうになつてしまつたのが、大なる原因であらうと私は思ふのだ。如何に自動車の講釈が巧にできても、「論語」の解らぬやうな人は私の到底共に与し能はざる処である。少くとも私は斯んな風の人と肝胆を吐露して深く御交際をするまでの気になれぬのである。私は当今の人々をして、質を重んずるやうな傾向を生ぜしめる為には、東洋道徳を鼓吹するのが何より大切な事であらうと思ふ。精神界目下の急務は実に東洋道徳の鼓吹にある。
 然し、如何に精神が堅実でも、精神ばかりで事物に接して之を旨く所置して行く事のできぬやうな人物になつてしまつても亦始末に終へぬものだ。よく漢学の先生なんかに爾んなのがある。それでは塾の寄附金を募集に出かけても話が旨くでき無いものだから、勧誘に応じて寄附する者が無いと謂つたやうな次第で、精神を実地に活かして働いてゆけ無くなる。これでも世の中は困るから、文質彬々、文と質との平行して極端に走らぬ人間に出来上るやうに、人は青年時代より篤と心懸けて置かねばならぬものである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.184-192
底本の記事タイトル:二四三 竜門雑誌 第三五二号 大正六年九月 : 実験論語処世談(二八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第352号(竜門社, 1917.09)
初出誌:『実業之世界』第14巻第12,13号(実業之世界社, 1917.06.15,07.01)