デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一

7. 高峰譲吉は温厚の人

たかみねじょうきちはおんこうのひと

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 人造肥料では前条にも一寸申して置いた通りで、燐酸石灰に硫酸をかけて過燐酸肥料といふものを作ることになるのだが、窒素肥料と称せらるるのは、窒素分を多く配合したもので、一名完全肥料とも称せられる。孰れにしても人造肥料の製造には硫酸を多く使用することになるのだが、従来私の肥料会社は硫酸を他から購入して使用して居つたのだ。それでは原料が高価につき、会社の利益が尠なくなるので、私が一人で会社を引受けるやうになつてからは却て積極的方針に出でて資本金を増加し、硫酸を会社自身の工場で製造して使用し、他より購入せぬ事にしたのである。それが会社の利益を増進し、会社を順境に向はしむる原因の一つにもなつたのである。大日本人造肥料会社の事業が順境に向ふと共に、其後続々人造肥料会社の設立を見るに至つたが、昨今では硫酸の取れる鉱石の鉱山所有者で人造肥料会社を経営して居らるる人が尠くない。
 高峰譲吉氏は大日本人造肥料会社を辞して渡米してから、四五年は随分彼地でも苦んださうである。当初渡米の目的であつたアルコール醸造に就ての発明の方は、何うも旨く行かなかつたらしいが、其の研究に従事中、偶然にも血止め薬と、彼の有名なタカヂアスターゼと其外にも何か新薬を発見したので、米国デトロイトの製剤家バーク・デビスが之を聞き込み、製剤して売り出したところが売行が頗る良好で何れも世界的の新薬になつたものだから、歩合のところまでは私も承知して居らぬが、兎に角それから揚る利益金の歩割が高峰氏の収入となり、同氏は之によつて産も作り、又世界的に有名な人となり、成功者を以て目せらるるにも至つたのであるが、博士になつたのも、これ等の新薬を発見したからである。
 高峰博士は至つて温厚の人で、元来は学者であるのだが、又事業を所理してゆける才もある。世間に所謂学者肌とは少し違つた趣のある人物で、人に接しても肌ザハリが佳く、極端に走つて他人と争ふやうな事は決してしないのが同博士の特色である。然し、如何に事業を処する才があるからとて、快刀乱麻を絶つといふほどのテキパキしたところは無い。これといふのも畢竟、素が学者であるからだらうが、同博士の気分のうちには何処かハッキリせぬやうな処がある。

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高峰譲吉, 温厚,
デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.184-192
底本の記事タイトル:二四三 竜門雑誌 第三五二号 大正六年九月 : 実験論語処世談(二八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第352号(竜門社, 1917.09)
初出誌:『実業之世界』第14巻第12,13号(実業之世界社, 1917.06.15,07.01)