デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一

2. 金貨の引換に苦しむ

きんかのひきかえにくるしむ

(28)-2

 私が今日までも生涯にも関係した事業の上に、途中で意外の故障が起つた為に、奔りて殿せねばならぬやうな場合に立ち至つた例も決して稀では無い。損勘定を精細に為し得る人物で無ければ、事業家として成功し得らるるもので無いといふのが私の抱懐であるから、私は自分の関係した事業が如何に悲境に瀕しても、三十六計逃ぐるを上策とすなぞと、跡は野となれ山となれ我が関する処に非ずとして、逸早く逃げ出すやうな事は決して致さず、最後まで踏み留つて、その事業の為に尽して来た積りである。最も古い一例は、私が第一銀行を起した際に発行して置いた銀行紙幣が陸続金貨との引換に遭ひ、銀行が殆んど立ち行か無くなつた時に当つて私の取つた態度である。これまで談話したうちにも述べてある如く、明治五年に発布になつた銀行条例は素と私の起草したものであるが、この銀行条例により、銀行に紙幣発行の特典を与へ、旧禄奉還の賠償として下附された金禄公債証書を士族に其のまま持たして置いては、或は之を売払つてしまつて費消し、衣食に窮するに至る結果、旧士族が今日の所謂社会主義者の如き乱民と変じ、国家の安寧を害するやうになりはせぬだらうかとの心配よりり、この金禄公債証書を資金として醵出させ、銀行を設立し、紙幣発行の特典より生ずる利益其他を配当し、士族に衣食の道を得せしむる趣意から、当時設立を見るに至つたのが数字を冠字とした国立銀行で第十五銀行でも第三銀行でも、素は皆旧禄の賠償として政府より下附された士族の金禄公債証書を資本にして設立せられたものだ。かく数字を名称にした銀行は其の初め「第何国立銀行」と称せられたもので前条にも一寸申して置いたこともある如く、金禄公債証書を政府に供託すれば、銀行紙幣を下附せらるる特典があつたのだ。この銀行紙幣は完全なる兌換券であつたので、愈よ銀行が其業務を開始してみると為替相場の関係上、陸続金貨との引換を要求せらるる事になつたのである。
 当時、日本は金貨本位であると称して居つたが、元来金が少く、実際は金貨国で無かつたものだから、斯く陸続金貨との引換を要求せらるる事になれば、私の設立した第一国立銀行は素より、当時既に設立せられて紙幣を発行して居つた他の三銀行、即ち横浜の第二国立銀行新潟の第四国立銀行、鹿児島の第五国立銀行もみな紙幣を金貨に引換へて渡さねばなら無くなり、当時の四国立銀行は金貨の吐出口であるが如き観を呈し、明治七年に百三十万円あつた銀行紙幣は翌八年の春には二十三万円に減少し、私の第一国立銀行だけでも一ケ月の引換高十三万円にものぼり、遂に四銀行合して発行紙幣の流通額が総計で僅に一万七八千円にまで減少したのである。

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キーワード
金貨, 引換, 苦しむ
デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.184-192
底本の記事タイトル:二四三 竜門雑誌 第三五二号 大正六年九月 : 実験論語処世談(二八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第352号(竜門社, 1917.09)
初出誌:『実業之世界』第14巻第12,13号(実業之世界社, 1917.06.15,07.01)