デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一

5. 第一回の発売に失敗

だいいっかいのはつばいにしっぱい

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 依つて私より斯の企てを友人等に相談して見ると、二十五万円ばかりの会社で、別に大した大事業だといふのでも無く渋沢が素と百姓で高峰が現に化学者――この二人で可いと思ふ事なら肥料の製造を始めるのも面白からう、屹度旨く行くだらうといふので、愈よ人造肥料会社を設立することになつて出来あがつたものが、今の大日本人造肥料株式会社である。恰も其年に益田孝が洋行することになつたので、高峰氏は益田と同行して洋行し、人造肥料の製造に必要なる機械及び硝酸などを買ひ込んで持ち帰り、欧洲諸邦に於ける工場の状態なども視察して帰つたのである。
 人糞とか堆肥とかいふやうな、別に金銭を出して買はずとも得られる肥料は古来「駄肥」と称し、鯟糟とか油糟とかいふ如き金銭を出して買はねばならぬ肥料は「金肥」と称して居つたものだが、日本で従来金肥を使つてる土地は高く売れる農作物を産出する地方だけ故、人造肥料を製造して之を売出すに就ては、従来金肥を使ふ事に慣れた地方へ先づ売捌く工夫をするに限ると思つたものだから、私は青年の頃藍の商売に関係して居つたところより、一つ藍の耕作を為る地方へ送つて試験をするが可からうと考へ、会社設立の初年に製造した肥料は第一着に藍の産地たる私の郷里と房州とへ送り、又一方に於ては越後方面へも送つてみたのである。
 ところが成績甚だ不良で、房州の方からは一寸の効能も無いと言つて来るし、越後の方からは、従来使用した胴鯟は同じ金肥でも耕地に刺し込んで置けるから、雨があつても流れる心配は無いが、人造肥料は雨が強いと流れてしまふから効能が無いというて来るなど、四方八方から非難攻撃の声ばかりで、設立当所の一年は散々な不結果に終つてしまつたのである。然し後日になつて高峰氏に就て訊してみれば、房州の藍産地に送つた肥料が効果の挙らなかつたのは寧ろ当然の事であつたのだ。
 人造肥料にもいろいろ種類があつて、作物の種類に応じ、肥料の種類をも変へてゆかねばならぬ。藍に施す肥料は過燐酸肥料では駄目なもので、窒素肥料で無ければならなかつたところを、素人の悲しさそんな事は頓と御存知無いもんだから、何んな作物へでも過燐酸肥料を施しさへすれば効果のあるものばかり思ひ込み、私は房州だとか私の郷里だとかの藍産地へ、新しく製造した過燐酸肥料を送りつけてしまつたのだから、如何に施して試ても効果の顕はれて来ぬのは当然のことで、愈〻効果が無いといふ報告に接してから之を高峰氏に話すと、若し当初から藍の産地へ送つて藍の肥料にするのだといふ事さへ知れて居れば、過燐酸肥料とは製造法を異にする窒素肥料を製造して送るやうにしたのであつたのにといふことであつたのである。それやこれやで、当初の一年は全く失敗に終つてしまつたところへ又一つ困つた問題が湧いて来たのだ。

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第一回, 発売, 失敗
デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.184-192
底本の記事タイトル:二四三 竜門雑誌 第三五二号 大正六年九月 : 実験論語処世談(二八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第352号(竜門社, 1917.09)
初出誌:『実業之世界』第14巻第12,13号(実業之世界社, 1917.06.15,07.01)