デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一

10. 紳士の条件は文質彬々

しんしのじょうけんはぶんしつひんぴん

(28)-10

子曰。質勝文則野。文勝質則史。文質彬々。然後君子。【雍也第六】
(子曰く、質、文に勝てば則ち野、文、質に勝てば則ち史。文質彬々、然して後に君子なり。)
 茲に掲げた章句は、人に於て外形と内容とが常に平行して居らねば之を称して立派な人物であると謂へるもので無い事を、孔夫子が御説きになつた教訓である。如何に内心が高潔で立派な精神の人物でも、その外部に顕はるるところが多く礼を欠き、外形が精神に副はぬやうではその人は野蛮人に等しいもので、その質樸も余り賞めたもので無い。之に反し、内心が野卑劣等で、汚陋の心事を蔵するに拘らず、外形ばかりは旨く繕つて美しく見せかけ、精神が外形に負けてるやうでも是又決して賞むべき人物で無く、それは恰も心にも無い美辞を聯ねて書くのを職として暮らす支那の史官と同一轍である。依つて、人は文も質も揃つて平行した人物にならねばならぬもので、斯くあつてこそ始めて人は君子の称を得らるるやうになるものだといふのが、斯の章句の趣意である。「文」とは外形に属する威儀文辞の意で「彬々」は過不足無く、物の程よく揃つた態を形容した言葉である。
 孔夫子の偉大なるところは、その文質彬々として文も質も能く揃ひ一方の極端に流れられなかつたところにあるのだが、常人は兎角、文か質かの一方に偏し易くなるものだ。礼に流れて阿諛に陥つたり、節倹を重んじて吝嗇になつたりするのもみな、一方に偏する弊の致すところである。その反対に又、阿諛が悪いからとて、倨傲に流れて不遜の態度に出で、人が善事に励むを見ても之を悉く偽善者であると罵つたり、又吝嗇が悪いからとて金銭を湯水の如くに使つて、之を金銭に淡白なる所以であると心得て誇つたりする如き人物になつても困る。質に流れず文に走らず、文質彬々として過不及の無いのが則ち真の紳士といふもので、之が君子であるのだ。西郷隆盛公なぞはどちらかと謂へば質が文に勝つて野に陥る気味のあつた方で、伊藤、木戸、大久保等の諸卿は文質の彬々たる所のあつた人々であるとも謂へる。
 概言すれば、当今の若い人たちには質が文に勝つよりも、文が質に勝つて、外形の優れた畳ザハリの佳い者が多く、殊に青年には物質的に流れて精神の空虚な輩が多いやうに見受けられる。之には種々の原因もあらうが、東洋道徳に対する趣味が欠乏して来て、ニーツェの道徳論を理解しても、論語の道徳説が納得せられぬやうになつてしまつたのが、大なる原因であらうと私は思ふのだ。如何に自動車の講釈が巧にできても、「論語」の解らぬやうな人は私の到底共に与し能はざる処である。少くとも私は斯んな風の人と肝胆を吐露して深く御交際をするまでの気になれぬのである。私は当今の人々をして、質を重んずるやうな傾向を生ぜしめる為には、東洋道徳を鼓吹するのが何より大切な事であらうと思ふ。精神界目下の急務は実に東洋道徳の鼓吹にある。
 然し、如何に精神が堅実でも、精神ばかりで事物に接して之を旨く所置して行く事のできぬやうな人物になつてしまつても亦始末に終へぬものだ。よく漢学の先生なんかに爾んなのがある。それでは塾の寄附金を募集に出かけても話が旨くでき無いものだから、勧誘に応じて寄附する者が無いと謂つたやうな次第で、精神を実地に活かして働いてゆけ無くなる。これでも世の中は困るから、文質彬々、文と質との平行して極端に走らぬ人間に出来上るやうに、人は青年時代より篤と心懸けて置かねばならぬものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.184-192
底本の記事タイトル:二四三 竜門雑誌 第三五二号 大正六年九月 : 実験論語処世談(二八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第352号(竜門社, 1917.09)
初出誌:『実業之世界』第14巻第12,13号(実業之世界社, 1917.06.15,07.01)