デジタル版「実験論語処世談」(44) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.340-345

子疾病。子路請禱。子曰。有諸。子路対曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣。【述而第七】
(子の疾、病なり。子路禱らんことを請ふ。子曰く、諸れ有りや。子路対へて曰く、之れ有り。誄に曰く、爾を上下の神祇に禱ると。子曰く、丘の禱るや久し。)
 孔夫子の御病気が御危篤に瀕せられた際、御弟子の子路は如何にもして孔夫子の御病気を恢復させたいと云ふ一念から、御病気御平癒の祈禱をさしては下さるまいかと、孔夫子に御願ひ申上げたのだ。孔夫子は心窃に爾んな事の無益であるのを知つて居られたが、弟子が折角親切に申してくれるのを無碍にも御断り難くかつたと見え、病気平癒の祈禱をするのは、果して道に適つたものか何うかと反問せられたのである。よつて子路は、古い弔詞即ち誄にある語を引用して病気の平癒を天神地祇に禱るのは、昔より能くある例で御座ると答へたので、孔夫子は「今更病気が危篤になつたからとて俄に禱るにも及ぶまい、自分は常平生絶えず天神地祇に禱つてたのだ」と仰せられたといふのが、茲に掲げた章句の意味である。
 禅宗の僧侶なぞは日常是れ坐禅であるといふ事を、能く教へる由に聞及んでるが、平素勝手気儘な真似ばかりして暮らし居りながら、病気が危篤に成つてから、如何に神仏へ禱つてみたところで神仏が其の祈願を聞届けて下さらう筈は無いのだ。人間の一生と申すものは言々句々是れ祈禱であり、坐作進退日々是れ坐禅であらねばならぬのが法だ。祈禱とは他無し、天道に合し人道を履んで行く事である。是れが又坐禅でもあるのだ。この意味に於て孔夫子は日々天道に合する事のみを言ひ、且つ行つて居つたから、特に音声を揚げて「助け給へ救ひ給へ」と禱ら無くつても、「丘の禱るや久し」と謂ひ得られたのである。されば論語八佾篇に於ても「罪を天に獲れば禱る所無し」と孔夫子は仰せられて居るのだ。日々の坐臥言行が天道に反き、人道に悖るやうでは、決して天助を蒙るわけに行くもので無い。依つて私は「丘の禱るや久し」の句を「天地に俯仰するも自ら省みて疚しく無い」といふ意味に解釈したいのである。
 一体、神仏が人格人性を備へて宇宙の何処にか御座ます如くに稽へるのが間違つてるやうに私には思はれてならぬのだ。私は神も仏も皆自分のうちに在るもので、自分が神であり仏であると思ふのである。仏教にいふ即身即仏だ。森村市左衛門氏なぞは昨今基督教を信奉し、自分以外に人格、人性を備へた神の実在を認め、之に祈禱もせらるるまでになつてるらしいが、この点に就て私は森村氏と意見を異にするのである。森村氏もまだ洗礼を受けぬので普通の基督教信者とは稍〻その趣を異にし、別派のクリスチャンたるの観はあるが、神の実在を篤く信じて居らるるのは事実だ。
 私は、斯く神仏に祈禱を致さぬからとて、神社仏閣を粗末にするかといふにさうでは無い。お互に人間同志に於てさへ恭敬を尽さねばならぬといふのが是れ人の道である。殊に我邦に於ては、畏れ多くも聖上御一人及び之に御近い皇族の御方々に対しては、之を普通の人間を超越したものとして崇敬せねばならぬのが道である。随つて伊勢の大廟に対しても、私は勿論崇敬の意を表するが、その他の神社仏閣とても人間以上の何ものかが其中に在します事に成つてるのだから、之を崇敬するのである。現に私が住んでる王子の町にも七社神社とか王子権現とかいふ鎮守神があるので、私は之を崇敬して居る。然し生れて以来、未だ曾つて利福を神仏に祈つたことは断じて一度も無い。私は何事も天授であると思つて、天道に合し人道を履んで過まらぬやうにとのみ心懸けて居るのである。
 普通の順序から謂へば、私は三十歳前に既う死んでしまはねばならぬ体軀である。実際又私は三十歳後までも生命があらうなぞと思つて居なかつたのだ。然るに意外にも長命して、本年(大正八年)は八十歳を迎ふる事に成つたのである。これは私が神仏に祈願を懸けたからといふわけで無い。全く天の授けて下された天寿である。依つてこの正月元旦には斯んな詩を一首作つて之を元旦試筆として書いて試た。
    己未元旦試筆
四海雲収旭日新。 辛盤依旧賀佳辰。
残軀殊憶天恩渥。 迎得昇平八十春。
 つまらぬ詩ではあるが私の、胸中を披瀝したもので「四海雲収旭日新」の一句のうちには、世界戦争も昨年の暮で終結し日本も之によつて世界の大舞台へ乗り出すやうに成つた悦びの意を述べてある。「辛盤」とは屠蘇に用ひる道具の事だ。それから「天恩」とは無論「天朝の御恩」の意味であるが、同時に又八十歳の天寿を私に仮してくれた「天の恩」にも引つかけた積りである。唯に寿命の長短のみならず、世の中の事は、何に限らず皆天授で、人間が如何に焦慮つたからとて如何に神仏へ祈願を籠めたからとて、運命を如何ともする能はざるものだ。早い話が、子孫の善悪なんか、実際人力で如何ともし難いでは無いか。これも畢竟するに親に行届かぬところがあるからだと申せば爾うも謂へようが、如何に注意して育てても、悪くなる子孫は猶且悪くなる。人事万端皆天授で、天気が時に雷霆を起したり、時に日本晴に成つたりするのと毫も変りは無い。祈願によつて天気を変へる事ができぬのと同じやうに、祈願によつて天授の運命は迚も変へ得らるべきもので無いのである。
 されば私は之れまで自分の関係した会社の事業が旨く発展して、良成績を挙げ得らるるやうにとか、或は又第一銀行が世間より信用を得らるるやうにしたいものであるとかと、自分で自分の心に望んだり祈つたりした事はあつても、苟も幸運の授かるやうにと自分以外の何物にも祈つた事は無いのである。伊藤公や井上侯なんかもこの神信心といふ事は一切せぬやうだつたが、大隈侯なんかにも爾んな様子は見えぬ。然し会津の藩祖で土津公と称せられた松平正之公、それから前条にも一寸申述べて置いた白河楽翁の松平定信公なぞは、熱心に神仏を信心した方々で、いろいろと祈願を神仏に懸けられたものである。
子曰。奢則不孫。倹則固。与其不孫也。寧固。【述而第七】
(子曰く、奢れば則ち不遜なり。倹なれば即ち固なり。其の不遜ならんよりは、寧ろ固なれ。)
 茲に掲げた章句の意味は、兎角奢れば贅沢に流れて傲慢不遜に陥り易く、世間より反感を以て迎へらるるに至るものだが、さればとて極端に倹約を旨とするやうでも、往々にして固陋に陥り、野卑なシミツタレになり下り、世間の指弾を受くる如き場合が出来てくる。然し孰れかと謂へば、驕奢に流れて不遜に陥るよりは、倹に走つて固陋の譏を受くる方がマシだといふにある。
 孔夫子は、是れまでも屡〻申述べ置ける如く、極端に走る事を甚く忌み嫌はれ、前条にも雍也篇に於ては「質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬々、然して後に君子なり」と仰せられて居るのだが、茲に掲げた章句の「奢れば則ち不孫なり。倹なれば則ち固なり」も、意の在るところは「文質彬々」の章句と毫も異る無く、偏に極端に走るを戒められ、余り贅沢に成つても宜しからぬが、余り倹約に走つても面白からぬ故、人は其の中庸を得ねばならぬものである事を教へられたのだ。ところが実際に臨めば、斯く贅沢に流れず吝嗇にもなるまいとするのは、頗る至難のことであるのを孔夫子も充分承知して居られたので、贅沢に成るよりは寧ろケチになつた方がマシだぞと仰せられたのである。
 贅沢とは一体何ういふものかと申せば、無益な事に浪費をするのが其れで、吝嗇とは支出すべき処にも吝んで支出せぬのが其れだ。無益な事には一切浪費せず、支出すべき処には欣然として支出するのが是れ奢にも流れず倹の弊にも陥らぬ中庸の道である。然し前条にも何時か申述べたことのあるやうに、倹約と吝嗇とは之を区別するのが却〻至難しいのである。伝へらるる所によれば、舜に用ひられて治水開拓の事業を大成し、後舜が崩じてから代つて位に即いた禹は、頗る倹素な人であつたさうだ。「史記」の「夏本紀」には禹の事を叙して「衣食を菲くし孝を鬼神に致し、宮室を卑くして費を溝淢に致し、……食を少く調へて余りあれば相給し、以て諸侯に均す」とあり、孔夫子も亦論語泰伯篇に於て、甚く禹の倹素であつたのを称揚せられ「禹は吾れ間然するところ無し、飲食を菲くして、孝を鬼神に致し、衣服を悪くして美を黻冕に致し、宮室を卑くして、力を溝洫に尽す。禹は吾れ間然するところ無し」と仰せられて居るほどだ。斯く禹の如く衣食住の無益な費用を省いて、之を殖産興業及び人情の美を発揚するために費すのが、真の倹約と申すものである。私は及ばず乍ら、衣食住の為にはでき得る限り倹約し、余りあれば公益の為に費すやうにと心懸けて居る積りだ。
 人間は苟も奢侈贅沢に流るるやうな事があつては相成らぬ事に就ては、越王勾践の智臣で、偉い大金満家になつた陶朱公の家訓などにも詳しく之を教へ、一寸の糸、半片の紙と雖も決して疎かに致すべきものに非ざる所以を説いてるのだ。昔からの英傑で倹約を重んじた人には家康がある。太田錦城の著した「梧窓漫筆」の中には信長、秀吉、家康の三人を比較して批評した一節があるが、何うも秀吉は家康と違つて傲奢に流れ、不遜に陥る弊のあつたことを述べ「天性驕奢にして開国創業の道を知らず……大度寛容の処は信長と格別なり」と申して居る。そこに至ると信長は秀吉の如く傲奢を競ふやうな事を為さず、至つて倹約で宜しかつたのだが、これは又秀吉と違つて偏狭なところがあつたのだ。家康に至つてはこの両者の欠点なく、秀吉の如く驕奢にも流れず、又信長の如く固陋偏狭にも陥らず、中庸を得て居つた人物であつたかのやうに思はれる。無益の衣食住に驕奢を傲り、得々たる如きは天物を暴殄するといふもので、損するのみにして、益する処は毫も無いのだ。
 私の知つてる古い人のうちでは、岩崎弥太郎氏なんかが、孰れかと謂へば傲奢の振舞ひをした人だと目せらるべき部類に属する人物で、何事でも総て大袈娑にやる癖あり、一寸客を招くにしても必要以上に多数の芸者を聘ぶといふ風であつたから、一見したところ如何にも傲奢に見えたのである。それから今の大倉喜八郎男なんかも、世間からは贅沢な人であるかのやうに想はれ、又実際に傲奢であるとも言へようが、あれで大倉男は締まる処には却〻よく締まる人で、或る点には倹約の度を過ごして吝嗇なところがあるんでは無いかと外間からは疑はるるほどのものだ。岩崎弥太郎氏にしたところで、驕奢を競ふやうに見えて、その実却〻倹約に引締まつたところのあつたものである。
 総じて自分が辛苦艱難し、汗水を流して厘毛からの算盤を弾き、自分の力で自分の産を成した人は如何に贅沢に流れ、驕奢を競ふやうに外間からは見えても、徹底的に底抜けの贅沢や驕奢は迚もできるもので無いのである。何処かに引締つた倹約なところがあり、天物を暴殄せぬやうにと心懸くるものだ。一向に前後を考慮へず、思ふがままの贅沢を仕尽し、底抜けに成つて馬鹿な驕奢を競ふのは、親譲りの財産を持つた資産家に限られたものだ。自分が汗水を滴らして積み上げた資産だとなると、その貴さを自分で能く弁へて居るから斯く成るのが当然である。神戸の光村利藻とか申した人は、写真道楽やら名妓を根曳したりするので一時有名であつたが、あの人などが本当に徹底的な底抜けの贅沢をした男だと云へるだらう。随分沢山あつた親の遺産を極僅かばかりの間に皆使ひ果してしまつたらしいが、あんな贅沢は親譲りの金銭だからできたので、いくら岩崎でも大倉でも自分の拵へた金銭を使つては、迚もあアいふ底抜けの馬鹿な贅沢を仕尽すわけに行くもので無い。自分で産を作つた人には何処にか根柢まで驕奢になり得ぬ固いところのあるものだ。
子曰。君子担[坦]蕩蕩。小人長戚戚。【述而第七】
(子曰く、君子は坦にして蕩々たり。小人は長に戚々たり。)
 茲に掲げた章句にある「蕩々」とは胸中のひろびろとした寛広の容貌を指したもので、「戚々」とは憂懼して心配する容貌をいうたものである。君子は総じて我が分に安じて以て道を楽み、生死の上に超越したところのあるものだから、内に省みるも疚しき処なく、随つて心がゆったりして居るので、胸中常に坦々、その様子が自づと顔や挙動にまでも表はるるのである。之に反し小人は心常に名利を念ひ、陰謀や策略ばかりを考へ、あの人を斯うしてみようの此の事を何んな風にして壊してやらうのと、碌でも無い悪事ばかり心窃に企んでるから、何でも無い人の顔を見ても何と無く恐ろしく感じ、それが挙動の上にも容貌の上にも自づと表はれ、憂懼の趣きを呈するに至るのだ。されば前条にも佐藤一斎の語を引いて談話して置いたことのあるやうに、大抵の人は初見の際に相したのみで、その如何なる人物なるやを判じ得らるるのである。一見したのみでも、君子には何処と無く君子らしくゆつくりしたところがあり、小人には何処と無く小人らしいこせこせしたところのあるものだ。
 これは私の極幼少の頃か、或は又私の生れぬ先きの事であるやも知れぬが、兎に角、私が親しく父より聞知したところによれば、父のまだ壮年であつた頃、江戸の向両国に即易の名人として広く名を売つた者に平沢左内といふ男があつたさうだ。「即易」とは即座に人の運勢を見る法で、平沢の即易は能く的中するとの評判の喧しいのに動かされ、父も好奇心半分から一日友人の斎藤吉蔵と申す者を同道して、平沢左内の許へ出かけ、易を見てもらつたさうである。処が果して評判の如く、何から何まで非常に良く的中する。その際平沢は父の性質やら運勢を相して「御前さんの運勢は非常に宜しい。それは、御前さんは何事にも注意が綿密で行届く人だからだ……」と謂つたと云ふ事である。これに反し、同行の斎藤吉蔵を相し「御前さんの運勢は何うも面白く無い。畢竟性質としてはさつぱりした面白いところがあるにも拘らず、物事に軽はずみで粗忽だからだ……」と申したさうである。父は平沢が両人に申し聞かせた判断を聞いて帰つてから、まさか易の表にそれと顕れたのでもあるまいに、平沢は何うして父が注意綿密で同行の斎藤が粗忽者であるのを覚り得たらうかと首をひねつて考へてみたところが、大に思い当る事があつたさうである。
 父は、平沢左内の即易見料は銀一分である事をかねがね聞き知つてたものだから、平沢の許へ斎藤と伴れ立つて運勢を見てもらひに出かける前に、予め銀一分をチヤンと紙に包んで之を懐中に入れて行つたのであるが、同行の斎藤の方はそんな準備も何も致さずに出かけたもんだから、愈よ一礼して見料を払ふ段に成り、父は懐中より予て用意の一封を取り出して、恭しく鄭重に差出せるに反し、斎藤は「見料は御いくらですか」なぞと問ひ訊し、それから俄に懐中を探るやら、袂を探すやらして漸く紙に銀一分を包んで差出し、その挙動が如何にも粗忽で、軽率らしく滑稽に見えてあつたとの事である。平沢左内は父と斎藤とが謝儀を差出した時の具合を窃に見て居つて、両人の挙動やら前後の模様より判断し、父は注意綿密であるから成功するが、斎藤は軽率であるから運勢が面白く無いと申聞かせたものらしい。父は斯の一事を例に引いて、易者なんかといふものも却〻眼の行き届いたもので、かく一寸した事から人の性質を判断したりなんかするもの故、馬鹿にならぬと私に話したことがある。
 誠に面白い逸話だと思つたので、今日でも猶ほ忘れずに覚えてゐるのだが、佐藤一斎が初見の時に人に相すれば大抵誤まりの無いものであると説いてるのも、それから孔夫子が「君子は坦にして蕩々たり、小人は長に戚々たり」と仰せに成つたのも、結局その帰する所は一で善い人間か悪い人間か、君子か小人かといふことぐらゐは、一度遇つて少し談話でもして見れば、何んとなく直ぐ其れと直覚し得らるるものだ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.340-345
底本の記事タイトル:二八三 竜門雑誌 第三七〇号 大正八年三月 : 実験論語処世談(第四十四回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第370号(竜門社, 1919.03)
初出誌:『実業之世界』第16巻第3号(実業之世界社, 1919.03)