デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.223-233
子曰。述而不作。信而好古。窃比於我老彭。【述而第七】
(子曰く、述べて作らず。信じて古を好む。窃に我が老彭に比す。)
今回より述而篇に入り、又従来の如くポチポチ処世上に就ての感想を述べることにするが、茲に掲げた章句は、孔夫子が決して御自分で奇を好み、物好きに世間と変つた説を述ぶるのでは無い、ただ万古不易、中外に施して悖らざる天下の大道を述ぶるに過ぎぬものであるとの意を明かにせられたものである。老彭の如何なる人であつたかは、今之を明かにするを得ぬが、商の国の大夫を勤め賢大夫の称を得た至極穏当な人である事だけは確かで、古聖人の道によつて治国平天下を心懸けたものであつたらしい。孔夫子の時代にも、世間には斯の老彭を賞むる声があつたので、孔夫子は「自分とても別に変つた新らしい説を唱道するのでは無い、自ら心窃かに老彭に比し、先王の道を祖述するのみのものだ」と仰せられたのがこの章句の意味である。然し、孔夫子が何故突如として斯る事を仰せられたものか、それには必ずや周囲の事情が存することと思はれるが、この事情を詳かにするを得れば一層この章句の趣旨を明確にし得らるるだらう。それにつけても前条にも申述べて置いた如くに、孔夫子御一代の年譜を編成して置いて孔夫子の記録を之に当て嵌めて攻究するやうに致したいものである。(子曰く、述べて作らず。信じて古を好む。窃に我が老彭に比す。)
同じく古人の説を祖述するにしても、心より之を祖述するのと、ただ古人の説であるからとて形式的に祖述するのと二種類がある。孔夫子は、単に先王の道を形式的に唱道せられたのでは無い。真に先王の道に依らなければ世の中が治まつて行かず、治国平天下を得られぬものと信じて之を唱道せられたのである。この信念を基礎とした言論であるから、孔夫子の言葉のうちには莫大の力が籠り、二千五百年後の今日までも、猶ほ読む者をして感憤せしむるのだ。つまり、先王の道を自分の道にして伝へられたのが是れ孔夫子である。徒に新奇の説を唱道し、之によつて名を売らんとするにのみ汲々たる青年子弟の如き則ち以て大に鑑とすべき点だらうと思ふ。道には決して二つ無いものだ。先王の道とか、孔子の道とか、古い道とか、新しい道とかの別のあらう筈が無いのである。さればとて、この章句によつて孔夫子を守旧家の如くに思はば、それは飛んでも無い料簡違ひである。
孔夫子は決して守旧家で無かつた。既に論語為政篇に於ても、「故きを温ねて新しきを知れば、以て師と為るべし」と仰せられ、又同じく学而篇に於て、御弟子の子貢が古い詩経の句を引用して孔夫子の御教訓を説明する処を耳にせらるるや、孔夫子は子貢を甚く御賞めになつて、「諸れに往を告ぐれば来を知る者なり」と仰せられたほどで、往、即ち過去の古い事に鑑みて、来、即ち新しい時勢に処して行かうといふのが、是れ孔夫子の御精神である。されば、茲に掲げた章句のうちにある「述」といふ文字も、単に古人の言を挙げるといふだけの意義のもので無く、古人が其端を作つて置いた法の足らざる処を補ひその到らざる処を尽すといふ意味である。
孔夫子が自ら窃に老彭に比して居つたやうに、私は一体、心窃に誰に比して居るのかと問はるれば、私としては「我が孔子に比す」と謂ひたいのだが、それは単に私の理想だけの事で、私ばかりが如何に心窃に孔夫子に比して居つても、到底及ぶ処で無いのみならず、世間が迚も承知してくれまいと思ふ。然し私の理想は飽くまでも孔子の如く成り、常識を重んじて世に処すると共に、自ら信じて恐れざる確乎たる信念のある人間に成りたいといふにある。支那の人では孔夫子を除けば、私は次に諸葛孔明を好むのである。孔明は常識の発達して居ると同時に、動かすべからざる信念のあつた人であるかのやうに思はれる。孔明に次いで私の好く人物は司馬温公だ。司馬温公は、幼少の頃水瓶の中へ落ちた朋輩を石で瓶を破つて救つたといふ逸話のあるのに徴しても知り得らるる如く、頗る常識に富まれた人であつたが、正直無比、毅然として曲ぐるところの無かつたものだ。これが為め支那にも古来司馬温公を崇拝する人多く、南宋の度宗の如き、咸淳三年(六百五十年前)大学に行幸して孔子の廟に謁せられた際には、十哲と共に司馬温公をも合せ祀られたほどである。日本の歴史上の人物では、菅原道真などを私は好くのである。
抑〻朝廷より政権の御委任を受け、人臣の身を以て之が運用の衝に当るに至つたのは、朝廷に皇位の事からいろいろ複雑なる事情を生じその結果、外戚の藤原氏が政治を取るやうになつたのが初まりで、文徳天皇の崩御に当り、僅か九歳に渡らせらるる皇太子の惟仁親王が御即位あらせられ、天安二年(千五十九年前)冬嗣の子藤原良房が清和天皇の摂政に立ち、天皇に代つて政を執るやうになつたのに其端を発するのだ。爾来藤原氏は礼楽だけを朝廷に残し、兵馬の権を我が手に収め、之によつて国内の政治を行つて来たのであるが、藤原氏とても自ら其の兵馬の権を行ひ得なかつたので、藤原氏が兵馬の権を執行する道具に使つて来た機関が、平氏と源氏とである。
この源平両氏とても俗に源氏の嫡流を「清和源氏」と称し、又謡曲「船弁慶」なぞに現れて来る平知盛の幽霊が「これは桓武天皇九代の後胤平知盛の幽霊なり」と名乗を揚ぐるほどで、共に其祖先は朝廷にあるのだが、兎に角、藤原氏は平氏と源氏とを左右に使つて、これにより兵馬の権を確立し、国内の安康を謀つて居つたものである。
時の後醍醐天皇は天資御英邁に渡らせ給うたので、政権を斯く北条氏に委任して置いては下万民の苦しみ如何ばかりならんかと叡慮を悩まさせられ、御親政を思ひ立たせられたのだ。之が所謂建武中興である。然るに、又当時の朝廷には大権運用の任に当る偉大なる人物が無かつたものだから、足利尊氏といふ怪傑が現れて、頼朝の遺業を継ぎ天下の一統を志し、茲に南北朝の両立を見るに至つたのであるが、兎に角、尊氏は北朝の朝廷より将軍の宣下を受け、天下に号令する事になつたものだ。然し、南朝の遺臣に猶ほ相当の人物があつたのと、弟直義との間に不和があつたりなどしたのとで、尊氏の存生中には迚も国内一統の素志を達し得られなかつたのである。ところが、足利三代の義満が却〻の人傑で、之を輔佐するに細川頼之の如き文武兼備の人才があつたものだから、久しく両立した南北朝も相合して一となり、後小松天皇が人皇第百一代として御即位あらせらるる事になつたのである。そのうち又義満の心が余りに驕り朝憲を紊すまでに至つたので足利氏も義満以後漸次に其声望を失墜し、義政に及んで殊に甚しく、遂に応仁の乱となり、その結果朝廷には、兵馬の実力無く、足利氏も亦国内を統率し得られず、幕府は名ばかりで其実無きに至り、統治の中心を失つたやうな形に陥つてしまつたので、茲に群雄割拠の戦国時代が現出せられたのである。
早くも此の弊を看破したのが織田信長である。流石に信長で、信長は私の争を棄て、国内を一統するのが何よりの大事であることに気付き、それには皇室中心の国体を飽くまで維持し、声望の既に地に墜ちて了つた足利幕府を再興し、之に朝廷より御委任になつてる政権を自分が実際に当つて運用し、之によつて兵馬を動かし天下に号令しようとの大志を起し、足利十三代将軍義輝の弑せらるるや、その弟の義昭を奉じて入洛し、十四代将軍の義栄が在職一年にして薨ずるに及び、義昭に十五代将軍の宣下を奏請し、足利義昭をチヤンとした征夷大将軍に押し立てて天下に臨まうとしたのである。信長に国家観念のあつた事は義昭の非曲を諫むるために上つた十七箇条封事の第一に「国家の治道何としてか永く、人道は何としてか古に立ちかへり、朴には成り候ふべしと、昼夜嘆き可思召候、他意おはしまさば果して不可有冥加事」とあるによつて之を知り得られる。
然し、義昭は信長の諫を用ひず、信長の声望を羨み再度まで兵を挙げたので、信長は遂に止む無く義昭を亡し、足利幕府の跡を絶つてしまつたが、勢ひの帰する処、信長は足利氏に代つて天下に号令するに至つたのである。それにしても信長一人で天下をマトメるわけにもゆかぬので、一方に於て三河の家康と結び、又他の一方に於て秀吉を抜擢して重用し、その昔藤原氏が源平両氏を道具に使つて政権の運用を計つた如くに、家康、秀吉の両人を左右に使つて国内を統一しようとしたのである。それにつけても、皇室を中心にせねばならぬと考へたので、信長は禁闕を修理し、供御田を奉り、詔を重んじ、勤王の実意を表したものだ。
然るに、突如として明智光秀が反いて信長を本能寺に弑したものだから、この時に当つて大に活躍の機会を得たのが秀吉である。秀吉は却〻奇抜な才のある人だつたので、直に信長の弔合戦を営み自ら天下を統一しようとしたのだが、柴田勝家等が秀吉に対して先づ反旗を翻した。秀吉は素より斯くあるべしと予期して居つたこと故、些かも驚く色無く、柴田を越前に破り、却て之を天下一統の第一階段にしたのである。
斯くして秀吉は家康を手に入れて、愈よ天下を一統するを得るに至り、征夷大将軍の職を拝し、政令兵馬の権を朝廷より委任せられ、天下に号令したのであるが、秀吉は信長にも増して国家観念強く、皇室を国家の中心として尊崇し、朝廷に代つて国家を統治しようと思ひ、勤王の志厚く、朝廷に対しては能く勤めたものである。
然るに、秀吉の歿後、大阪方には大勢を視るに疎き暗愚の人々多く其等の輩が勢力を揮ひ、豊臣氏は到底朝廷より御委任の政権を運用してゆけ無くなつたので、本当の順序から謂へば、一旦朝廷へ政権を奉還すべきであるのだが、当時朝廷にも亦人物が無かつた所より、家康が止む無く御委任を継承し、自ら征夷大将軍の職を拝し、家康以後十五代、徳川氏が政令兵馬の権を握つて天下に号令するに至つたのである。然し、秀吉が歿してから豊臣氏に人物無く、朝廷より御委任になつてた政権を運用し得られなくなり、一時政権が宙に迷はうとした当時、若し朝廷に人物があつたとすれば、家康の考へも恐らく之に影響せられ、征夷大将軍の職を拝するに至るまでの径路に多少の変化があり、或は政権を豊臣氏の亡ぶると共に朝廷へ奉還するやうな運びにしたかも知れぬのである。
兎角、成功した人は世間から嫉まるるものなので、如何に義しい順当な事ばかりをしても、その当時は素よりいふまでも無く、後世になつてからまでも老獪であるかの如くに観られ勝のものである。家康が今日の史論家によつて老獪を以て目せらるるのは、家康は成功した人であるからだ。之に反し、菅原道真は正直な人で、一点非難すべきところの無い聖人の如くに謂はれるのは、家康の如く成功せずに失敗を以て其生涯を終つたからである。成功者は総て老獪なもので、失敗せねば人は正直で正しくあり得ぬものだとすれば、貧乏人で無ければ義しい事は行へぬものだといふ理窟になる。天下に斯んな馬鹿な道理のあらう筈が無いのだ。
子曰。黙而識之。家而不厭。誨人不倦。何有於我哉。【述而第七】
(子曰く、黙して之を識し、学んで厭かず、人を誨《をし》へて倦まず、何れか我れに有る哉。)
茲に掲げた章句に於て孔夫子の曰はれた事は一々真実で、孔夫子といふ御方は、少しぐらゐの智識を誇り気に揮り廻して談論せられたり学に飽き易かつたり、人を教へるのを厭がつたりする性質であられたとすれば、孔夫子の孔夫子たる価値が殆ど全く無くなつてしまふ事になる。依つて思ふに、恐らく斯の章句は世間に孔夫子を非難する声が轟々として起り、彼は碌々物を知つて居りもせず、研究もせず、さればとて教育者として子弟を懇篤に指導する熱心も無い男だなぞと、没分暁漢共の喧々たる声を耳にせられた時に、之に激して発せられたもので、そのうちには素より謙辞も含まれてるが又多少の皮肉も含まれ「如何にも左様で厶いますよ」と謂つたやうな意味もあるだらう。(子曰く、黙して之を識し、学んで厭かず、人を誨《をし》へて倦まず、何れか我れに有る哉。)
如何に学問して物識になつても、之を胸中にのみ秘め置き容易に発表せぬといふ如き床しき挙動に出る人は却〻見当らず、大抵の人は一を知れば之を十にして見せびらかしたがるものである。伊藤公でも大隈侯でも猶且みな斯の傾向があり、大隈侯などになれば殊に甚しく、盛んに一知半解の知識を揮り廻される。一知半解の知識を揮り廻して高論放言するぐらゐなら、その穉気愛すべしとして笑つてすまされもするが、少し性質の邪な人になると、その一知半解の知識を悪用して之を揮り廻し、自己の非を隠さうとさへするものだ。近頃の青年が、我が自堕落を弁護せんが為に、聞き噛り、ウロ覚えの西洋の新主義を主張するなぞが即ち其れである。誠に悲むべき現象なりと謂はねばならぬ。
要するに一知半解の知識を揮り廻して物識顔をする人は、謙遜で無い人である。孔夫子は頗る恭謙の美徳に富まれた人であつたから、常に自己の足らざる処を悔い、汲汲として及ばざるを是れ唯恐れられたものである。それが茲に掲げた如き章句となつて顕れたのだ。私なぞも黙して之を識すといふ事は却〻難しくつてでき難い点だと思うて居る。然し、学びて厭かずといふ事には、多少自ら力めて居る積りで、別に学問を専門とする者でも無いから徹底するまで研究を継続するわけにもゆかぬが、自分独りで早合点せず、知らぬ事は飽くまでも学びたいとの心懸を持つて居る。若し夫れ人を誨へて倦かずといふ点に至つては、或は自分に於て多少能くし得るかと思ふのだ。然し、為に老人の長談義なぞと譏られるやも知れぬ。
子曰。徳之不修。学之不講。聞義不能徙。不善不能改。是吾憂也。【述而第七】
(子曰く、徳の修めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能はざる不善を改むる能はざる、是れ吾が憂なり。)
茲に掲げた章句も、又是れ孔夫子の謙辞たるに過ぎぬのである。孔夫子にして真に徳を修めず、学を講ぜず、不善を改むる能はざる人であつたとすれば、孔夫子は聖人どころか全く取るにも足らぬ人物だ。孔夫子が斯の章句に於て、恰も自分が、徳を修めず、学を講ぜず、不善を改むる能はざる如くに曰はれたのは、自分を仮つて世間に徳の修まらぬ、学を講ぜざる、不善を改むる能はざる人々の多いのを慨せられ、之を諷せられたに過ぎぬのである。私なぞでも、他人に忠告する時には、「自分は薄徳だが……」とか何んとか前置きをして、それから今の世の中が一般に軽薄で、犠牲の精神に乏しく、利己的にばかりなつて困るといふやうな意を述べ、世間に警告を与へるのが例だ。恰度私が、今日の人が犠牲の精神に乏しく、軽薄で利己的なのを慨はしく思ふ如く、孔夫子も当時の社会に徳を修めず、学を講ぜず、不善を改むる能はざる人々が余りに多いのを憤慨せられ、斯る言を発するに至られたものだらう。(子曰く、徳の修めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能はざる不善を改むる能はざる、是れ吾が憂なり。)
孔夫子の説かれたところも「大学」と「論語」とではその説き方に非常な差がある。前条に談話したうちにも述べ置ける如く、「大学」は人が人生に処する道の大要に就て説かれたもので、為に其書を称して「大学」といふやうになつたのだが、冒頭の章句にある「明明徳」「親民」「止至善」の三条が全篇の骨子で、古来之を「大学」の三綱領と称んで居る。それからこの三綱領を実地に弘演する法として説かれた「平天下」「治国」「斉家」「修身」「正心」「誠意」「致知」「格物」は、古来「大学」の八条目と称せられて居るが、まづ初めに「古の明徳を天下に明かにせんと欲する者は、先づ其国を治む」と説き、順次斉家、修身、正心、誠意、致知、格物に及び、社会に於ける安寧幸福の根本は事物の観察研究にあるを示し、今度は更に改めて逆に説き、「物格りて而る後に知至る」から始めて、誠意、正心、修身、斉家に遡り、「国治りて而る後に天下平かなり」と結んだところは、実に面白い説き方であるとは謂はねばならぬ。然し、抽象的にのみ流れ、毫も実際の細目に渡つて居らぬ。論語に至つては然らず、世間の批評だとか、弟子等の苦情だとか、其他種々の難局に臨んで応酬せられた教訓であるから、これまでも屡〻申し置ける如く、実際に臨んで心に迷を生じた時に論語の教訓を尺度にして批判しさへすれば、人は大過無き一生を送り得らるるのだ。度々繰り返すやうではあるが、序であるから又申添へて置く。
そこに至ると孔夫子は流石に豪いもので、過つては即ち改むるに憚ること無く、一寸した戯言でも、悪いと気付けば直に之を取消されたもので、論語陽貨篇には、之に就ての逸話がある。一日孔夫子が門人を引き率れられて、御弟子の一人なる子游が其の宰たる武城に遊ばれたところが、絃歌の声を聞き、これも子游が治道に妙を得て、民に礼楽を教へて居るからだと大に悦ばれ、子游ほどの男が斯んな小さな邑を治むるのに礼楽を以てするほどの事もあるまいとの意味から「鶏を割くに焉ぞ牛刀を用ゐん」との語を発せられた。之を聞いた子游は、孔夫子にも似合はしからぬ事を仰せらるるものかなと思ひ、「君子道を学べば人を愛し、小人道を学べば使ひ易しとは、曾て先生より教へられた処であるが、この精神を遵奉し、君子も小人も皆善良の邑民たるを得るやうにと、礼楽によつて民に道を学ばしむる方針を取り居るのに、却て孔夫子の御口から、礼楽にも及ぶまいとの仰せを聞くとは何んたる事であるか」と、攻撃の戈を孔夫子に向けたので、孔夫子も悪いことを言つたと心付かれ、「偃(子游の名)の言是なり、前言は之に戯るるのみ」と、失言を取消されたところは、孔夫子で無ければできぬことで、毫も自分の非を弁護せられようとせず、併も其御言葉に迫まつた処なく、綽々として余裕のあるのには私の如きただただ感服するより外は無いのである。「菜根譚」にも「己が心を昧まさず、人の情を尽さず、物の力を竭さず、以て天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、子孫の為に福を造すべし」とある。
人にはみな妙な癖のあるもので、他人の失言や無理な行為は之を彼是と非難するが、自分の言動には如何に失言や無理があつても、之を弁護せねばならぬ義務があるかの如く心得て、直に何んの彼んのと付けられもせぬ理窟を無理に付けて、我が非を無理に遂げようとしたがるものだ。如何に三百理窟を捏ねあげて、一時自分の非を糊塗して見たからとて、失言は依然として失言、無理な行為は依然として無理な行為である。そんな馬鹿な役にも立たぬ事に潰す暇があつたら、それよりも失言を早く取消し、無理な行為に対しては改悛の情を示し、以後その過ちを再びせぬやうに心懸けるが何よりである。然らばその人は、自分の失言を弁護したり、無理な行為に理窟をつけて烏を鷺と言ひくるめるよりも遥にその人品を高める事になる。自分で自分の失言非行を無理な理窟で弁護するほど、世の中に見つともないものは無いのである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.223-233
底本の記事タイトル:二五二 竜門雑誌 第三五七号 大正七年二月 : 実験論語処世談(第卅二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第357号(竜門社, 1918.02)
初出誌:『実業之世界』第14巻第20-22号(実業之世界社, 1917.10.15,11.01,11.15)
底本の記事タイトル:二五二 竜門雑誌 第三五七号 大正七年二月 : 実験論語処世談(第卅二回) / 青淵先生
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