デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.223-233

子曰。述而不作。信而好古。窃比於我老彭。【述而第七】
(子曰く、述べて作らず。信じて古を好む。窃に我が老彭に比す。)
 今回より述而篇に入り、又従来の如くポチポチ処世上に就ての感想を述べることにするが、茲に掲げた章句は、孔夫子が決して御自分で奇を好み、物好きに世間と変つた説を述ぶるのでは無い、ただ万古不易、中外に施して悖らざる天下の大道を述ぶるに過ぎぬものであるとの意を明かにせられたものである。老彭の如何なる人であつたかは、今之を明かにするを得ぬが、商の国の大夫を勤め賢大夫の称を得た至極穏当な人である事だけは確かで、古聖人の道によつて治国平天下を心懸けたものであつたらしい。孔夫子の時代にも、世間には斯の老彭を賞むる声があつたので、孔夫子は「自分とても別に変つた新らしい説を唱道するのでは無い、自ら心窃かに老彭に比し、先王の道を祖述するのみのものだ」と仰せられたのがこの章句の意味である。然し、孔夫子が何故突如として斯る事を仰せられたものか、それには必ずや周囲の事情が存することと思はれるが、この事情を詳かにするを得れば一層この章句の趣旨を明確にし得らるるだらう。それにつけても前条にも申述べて置いた如くに、孔夫子御一代の年譜を編成して置いて孔夫子の記録を之に当て嵌めて攻究するやうに致したいものである。
 同じく古人の説を祖述するにしても、心より之を祖述するのと、ただ古人の説であるからとて形式的に祖述するのと二種類がある。孔夫子は、単に先王の道を形式的に唱道せられたのでは無い。真に先王の道に依らなければ世の中が治まつて行かず、治国平天下を得られぬものと信じて之を唱道せられたのである。この信念を基礎とした言論であるから、孔夫子の言葉のうちには莫大の力が籠り、二千五百年後の今日までも、猶ほ読む者をして感憤せしむるのだ。つまり、先王の道を自分の道にして伝へられたのが是れ孔夫子である。徒に新奇の説を唱道し、之によつて名を売らんとするにのみ汲々たる青年子弟の如き則ち以て大に鑑とすべき点だらうと思ふ。道には決して二つ無いものだ。先王の道とか、孔子の道とか、古い道とか、新しい道とかの別のあらう筈が無いのである。さればとて、この章句によつて孔夫子を守旧家の如くに思はば、それは飛んでも無い料簡違ひである。
 孔夫子は決して守旧家で無かつた。既に論語為政篇に於ても、「故きを温ねて新しきを知れば、以て師と為るべし」と仰せられ、又同じく学而篇に於て、御弟子の子貢が古い詩経の句を引用して孔夫子の御教訓を説明する処を耳にせらるるや、孔夫子は子貢を甚く御賞めになつて、「諸れに往を告ぐれば来を知る者なり」と仰せられたほどで、往、即ち過去の古い事に鑑みて、来、即ち新しい時勢に処して行かうといふのが、是れ孔夫子の御精神である。されば、茲に掲げた章句のうちにある「述」といふ文字も、単に古人の言を挙げるといふだけの意義のもので無く、古人が其端を作つて置いた法の足らざる処を補ひその到らざる処を尽すといふ意味である。
 「述べて作らず」と、仰せらるるところを聞けば、孔夫子は如何にも恭謙の徳に富んだ謙遜の人であるかのように考へ得られる。又、実際謙遜の人であられたのである。それから、この「述べて作らず」と曰はれた語のうちには、孔夫子が常識を重んぜられた人であつた事も顕れて居ると謂ひ得よう。一体、常識とは何んなものかと謂へば、古くから行ひ来つた事を改めず、万事之に則つて行つてゆくといふに外ならぬのだ。然し、一にも常識、二にも常識、三にも四にも常識と常識ばかりを尊んで先例にのみ拘泥する者になつてしまへば、毫も毅然たる処の無い、大勢に阿附する弱い意気地無しの人間となり、何か大事が目前に突発した時に、之に処して過まらざるを得るシツカリした人間に成り得られ無くなるものである。故に、常識は人に取つて欠くべからざるものではあるが、猶且過ぎたるは及ばざるが如しで、常識も余り過ぎれば却て人を賊するに至るものだ。是に至れば孔夫子は流石に豪く、「述べて作らず」と、頗る常識に富んで居らるるにも拘らず、他の一方に於てはこれまで談話したうちにも屡〻引用せる如く、「桓魋其れ予を如何にせん」とか、「匡人其れ予を如何にせん」とかいふ如き、驚くべきほど自信のある言を成して居らるる。この自信が無く、ただ常識に富んでるのみでは、人間が軽薄でフラフラしたものになつてしまふ恐れがある。
 孔夫子が自ら窃に老彭に比して居つたやうに、私は一体、心窃に誰に比して居るのかと問はるれば、私としては「我が孔子に比す」と謂ひたいのだが、それは単に私の理想だけの事で、私ばかりが如何に心窃に孔夫子に比して居つても、到底及ぶ処で無いのみならず、世間が迚も承知してくれまいと思ふ。然し私の理想は飽くまでも孔子の如く成り、常識を重んじて世に処すると共に、自ら信じて恐れざる確乎たる信念のある人間に成りたいといふにある。支那の人では孔夫子を除けば、私は次に諸葛孔明を好むのである。孔明は常識の発達して居ると同時に、動かすべからざる信念のあつた人であるかのやうに思はれる。孔明に次いで私の好く人物は司馬温公だ。司馬温公は、幼少の頃水瓶の中へ落ちた朋輩を石で瓶を破つて救つたといふ逸話のあるのに徴しても知り得らるる如く、頗る常識に富まれた人であつたが、正直無比、毅然として曲ぐるところの無かつたものだ。これが為め支那にも古来司馬温公を崇拝する人多く、南宋の度宗の如き、咸淳三年(六百五十年前)大学に行幸して孔子の廟に謁せられた際には、十哲と共に司馬温公をも合せ祀られたほどである。日本の歴史上の人物では、菅原道真などを私は好くのである。
 明治維新は王政復古だといふことになつてるが、これは維新の改革を実行するに当つて特に設けた口実ではない。歴史を能く知らぬ人々のうちには、何んでも昔にあつた事を楯にして徳川幕府に当らねば到底改革を断行し得らるるもので無いからとて、人間に古を好む癖があるのに乗じ、王政復古を口実にして薩長が幕府を倒しでもしたかの如くに思つてる者もあるが、決して爾うで無い。当時の事情は幕府に朝廷より御預りして居つた政権を有効に運用してゆけるほどの力が無くなつてしまつたので、藤原氏以前の古へに復り、朝廷の御親政となるより他に道が無かつたのである。必ずしも「信じて古を好む」といふ処に万民の心が一致したから維新の鴻業が成就せられたのでは無い。然し、「述べて作らず」であつたと謂へば、謂へぬでも無からう。要するに大勢が之を然らしめたもので、維新頃には幕府に昔の如き力が無くなつてたと反対に、朝廷の公卿に岩倉、三条、大原をはじめ人傑があつたものだから、自然、政権も幕府より朝廷へ奉還せらるる事になつたのである。
 抑〻朝廷より政権の御委任を受け、人臣の身を以て之が運用の衝に当るに至つたのは、朝廷に皇位の事からいろいろ複雑なる事情を生じその結果、外戚の藤原氏が政治を取るやうになつたのが初まりで、文徳天皇の崩御に当り、僅か九歳に渡らせらるる皇太子の惟仁親王が御即位あらせられ、天安二年(千五十九年前)冬嗣の子藤原良房が清和天皇の摂政に立ち、天皇に代つて政を執るやうになつたのに其端を発するのだ。爾来藤原氏は礼楽だけを朝廷に残し、兵馬の権を我が手に収め、之によつて国内の政治を行つて来たのであるが、藤原氏とても自ら其の兵馬の権を行ひ得なかつたので、藤原氏が兵馬の権を執行する道具に使つて来た機関が、平氏と源氏とである。
 この源平両氏とても俗に源氏の嫡流を「清和源氏」と称し、又謡曲「船弁慶」なぞに現れて来る平知盛の幽霊が「これは桓武天皇九代の後胤平知盛の幽霊なり」と名乗を揚ぐるほどで、共に其祖先は朝廷にあるのだが、兎に角、藤原氏は平氏と源氏とを左右に使つて、これにより兵馬の権を確立し、国内の安康を謀つて居つたものである。
 ところがこの状態が久しく継続して居るうちに、源平両氏の争ひが激しくなつて来て、到底、藤原氏の力では之を制御してゆけ無くなつてしまつた。為に藤原氏は漸く鼎の軽重を問はるるほどの無勢力の位置に陥り、在れども無きが如くに取扱はれ、源平両氏が勝手気儘に兵馬の権を揮り廻し、互に相争ふに至り、又藤原氏に人物が無かつたので、遂に白河天皇の朝に及んで師実を最後の関白にして藤原氏は全く其権威を失墜してしまつたのである。其後、一時は又天皇御親政の時代と相成つたのだが、兵馬の権は、依然源平両氏に握られて居つたのだから、礼楽の権のみある朝廷の力では迚も国内の治まりがつかず、源平両氏の確執は益〻激しくなるばかりであつたのである。其の極遂に保元の乱となつたが、当時源氏よりも平氏に人傑多く、殊に清盛の如き辣腕家が現れて来たので、平治の乱に至つて源氏は全く其勢力を失墜して喪びてしまひ、世は平氏の天下となり、平氏が朝廷よりの御委托を受けて政権を握り、兵馬の権をも独り天下で行使するやうになつたのである。然し、平氏が余りに横暴に流れ、政兵の権を朝廷より御委托せられて居るに乗じ勝手我儘の挙動に出たものだから、国内の人心も自然と平氏より離れて来たのを看て取つた頼朝が、石山橋に旗挙げし、諸国の源氏がみな之に呼応することになつたので、寿永、建久を経て、平氏は遂に西海に亡び、茲に源氏の天下を出現し、頼朝が総追捕使の職を拝し、天下に号令するやうになつたのである。
 頼朝の歿後、源氏は甚だ振は無くなつてしまつた。恰も藤原氏が朝廷より御委任になつた政権を運用する便宜上、兵馬の権を源平両氏に任せ、両氏を統治の道具に使つたのが禍ひを成して、藤原氏に人物が無くなると共に、遂に源平両氏を統率し得られなくなり、勝手放題の我儘をされるやうになつてしまひ、その極、朝廷より御委任を受けた政権を、まづ平氏に奪はれ、それが次いで源氏の手に渡るに至つたのと殆ど同じやうな径路で、頼朝が総追捕使の命を拝するや、其初め統治上の便を得るため道具に使つた北条氏によつて、源氏は頼朝の手で朝廷より御委任を受けた統治の政権を、奪ひ去らるるやうになつてしまつたのである。庇を貸して母屋を取らるるとは之れの事だ。然し、当時、政子に引続き泰時、時頼、時宗等の人傑偉才が北条氏に現れたものだから、斯くなるのは寧ろ当然の順序であると謂はねばならぬのだ。ところが、北条氏も高時に及んで暴逆その度を過ぎ、海内到る処に怨嗟の声を聞くに至り、迚も北条氏の力を以てしては国内を治め得られ無くなつてしまつたのである。
 時の後醍醐天皇は天資御英邁に渡らせ給うたので、政権を斯く北条氏に委任して置いては下万民の苦しみ如何ばかりならんかと叡慮を悩まさせられ、御親政を思ひ立たせられたのだ。之が所謂建武中興である。然るに、又当時の朝廷には大権運用の任に当る偉大なる人物が無かつたものだから、足利尊氏といふ怪傑が現れて、頼朝の遺業を継ぎ天下の一統を志し、茲に南北朝の両立を見るに至つたのであるが、兎に角、尊氏は北朝の朝廷より将軍の宣下を受け、天下に号令する事になつたものだ。然し、南朝の遺臣に猶ほ相当の人物があつたのと、弟直義との間に不和があつたりなどしたのとで、尊氏の存生中には迚も国内一統の素志を達し得られなかつたのである。ところが、足利三代の義満が却〻の人傑で、之を輔佐するに細川頼之の如き文武兼備の人才があつたものだから、久しく両立した南北朝も相合して一となり、後小松天皇が人皇第百一代として御即位あらせらるる事になつたのである。そのうち又義満の心が余りに驕り朝憲を紊すまでに至つたので足利氏も義満以後漸次に其声望を失墜し、義政に及んで殊に甚しく、遂に応仁の乱となり、その結果朝廷には、兵馬の実力無く、足利氏も亦国内を統率し得られず、幕府は名ばかりで其実無きに至り、統治の中心を失つたやうな形に陥つてしまつたので、茲に群雄割拠の戦国時代が現出せられたのである。
 戦国時代の群雄には素より国家の観念無く、又随つて国家の元首たる朝廷を尊崇する考えなども無かつたものだ。この間に於て多少なりとも朝廷を尊崇する気のあつたのは、唯僅かに一の毛利元就ぐらゐのものだらう。元就は私に兵の動かすべからざるを知り、周防の大内氏のため義によつて陶晴賢を討たんとするに当つても、特に朝廷より陶氏討伐の綸旨を請ひ受け、それから初めて兵を挙げたほどだ。その他の豪傑たちに至つては、まだ国家の成立しなかつた野蛮時代に於ける酋長と毫も択む処無く、武田信玄にしても上杉謙信にしても、共に非凡の豪傑英雄であつたには相違無いが、徒に私の争ひを事としたもので、恰も野蛮時代の酋長等が互に他の酋に攻め寄せて之を侵略し、各自の領有地を拡めようとした如く、自分の封土を少しでも拡くすることにのみ熱中し、眼中に日本も無ければ国家も無く、ただ他を倒すのみ急であつたものだ。これでは何時まで経つても国内が静謐に帰しよう筈が無い、蒼生は戦禍によつて塗炭の苦に泣かねばならぬばかりであつた。
 早くも此の弊を看破したのが織田信長である。流石に信長で、信長は私の争を棄て、国内を一統するのが何よりの大事であることに気付き、それには皇室中心の国体を飽くまで維持し、声望の既に地に墜ちて了つた足利幕府を再興し、之に朝廷より御委任になつてる政権を自分が実際に当つて運用し、之によつて兵馬を動かし天下に号令しようとの大志を起し、足利十三代将軍義輝の弑せらるるや、その弟の義昭を奉じて入洛し、十四代将軍の義栄が在職一年にして薨ずるに及び、義昭に十五代将軍の宣下を奏請し、足利義昭をチヤンとした征夷大将軍に押し立てて天下に臨まうとしたのである。信長に国家観念のあつた事は義昭の非曲を諫むるために上つた十七箇条封事の第一に「国家の治道何としてか永く、人道は何としてか古に立ちかへり、朴には成り候ふべしと、昼夜嘆き可思召候、他意おはしまさば果して不可有冥加事」とあるによつて之を知り得られる。
 然し、義昭は信長の諫を用ひず、信長の声望を羨み再度まで兵を挙げたので、信長は遂に止む無く義昭を亡し、足利幕府の跡を絶つてしまつたが、勢ひの帰する処、信長は足利氏に代つて天下に号令するに至つたのである。それにしても信長一人で天下をマトメるわけにもゆかぬので、一方に於て三河の家康と結び、又他の一方に於て秀吉を抜擢して重用し、その昔藤原氏が源平両氏を道具に使つて政権の運用を計つた如くに、家康、秀吉の両人を左右に使つて国内を統一しようとしたのである。それにつけても、皇室を中心にせねばならぬと考へたので、信長は禁闕を修理し、供御田を奉り、詔を重んじ、勤王の実意を表したものだ。
 然るに、突如として明智光秀が反いて信長を本能寺に弑したものだから、この時に当つて大に活躍の機会を得たのが秀吉である。秀吉は却〻奇抜な才のある人だつたので、直に信長の弔合戦を営み自ら天下を統一しようとしたのだが、柴田勝家等が秀吉に対して先づ反旗を翻した。秀吉は素より斯くあるべしと予期して居つたこと故、些かも驚く色無く、柴田を越前に破り、却て之を天下一統の第一階段にしたのである。
 秀吉が天下を一統しようとするに当つて眼の上の瘤になつたものは家康である。家康に首を振られては如何ともする能はざる事になる。既に家康は信長の次子信雄に頼まれて小牧山に拠つて秀吉に対抗したほどである。依て家康を手に入れてしまはねば、如何に柴田勝家の輩を亡ぼしてしまつたところで、秀吉は天下を一統し得らるるもので無いから、家康を手に入れる為には、流石の秀吉も凡ゆる手段を講じたものだ。之が為、秀吉は母を人質として三河に送るやら、それから家康が其妻たる今川義元の養女築山御前を離縁した跡へ、前条に談話したうちにもある如く、既に佐治氏との間に婚約のあつた自分の妹を佐治氏との約を破つて家康に娶はし、其妻たらしむるまでの事をさへしたのである。但し、この築山御前といふ女は医師減慶と姦通し不軌を謀るなど不貞の女であつたから、家康として之を離縁したのは無理からぬことだ。
 斯くして秀吉は家康を手に入れて、愈よ天下を一統するを得るに至り、征夷大将軍の職を拝し、政令兵馬の権を朝廷より委任せられ、天下に号令したのであるが、秀吉は信長にも増して国家観念強く、皇室を国家の中心として尊崇し、朝廷に代つて国家を統治しようと思ひ、勤王の志厚く、朝廷に対しては能く勤めたものである。
 然るに、秀吉の歿後、大阪方には大勢を視るに疎き暗愚の人々多く其等の輩が勢力を揮ひ、豊臣氏は到底朝廷より御委任の政権を運用してゆけ無くなつたので、本当の順序から謂へば、一旦朝廷へ政権を奉還すべきであるのだが、当時朝廷にも亦人物が無かつた所より、家康が止む無く御委任を継承し、自ら征夷大将軍の職を拝し、家康以後十五代、徳川氏が政令兵馬の権を握つて天下に号令するに至つたのである。然し、秀吉が歿してから豊臣氏に人物無く、朝廷より御委任になつてた政権を運用し得られなくなり、一時政権が宙に迷はうとした当時、若し朝廷に人物があつたとすれば、家康の考へも恐らく之に影響せられ、征夷大将軍の職を拝するに至るまでの径路に多少の変化があり、或は政権を豊臣氏の亡ぶると共に朝廷へ奉還するやうな運びにしたかも知れぬのである。
 家康は如何にも老獪至極の人物であつたかの如く今日でも世間より謂はれ、福本日南氏の如き、切りに家康を老獪だ老獪だと罵つて居られるが、私は家康を左ほど老獪の人であるとは思はぬのである。彼の大仏鐘銘の一件から豊臣氏をキメつける時に当り、態〻駿府まで出かけた片桐且元に対しては淀君を人質に入れろとか、郡山へ国換をしろとか、諸侯並に江戸へ参勤をしろとかと難題ばかり吹きかけて置いて一方淀君から遣はされた大蔵局以下の女﨟たちに対しては「何も心配するに及ばぬ。緩乎遊んで帰るが可い」などと甘言を以て之を遇し、大阪へ帰つてからの且元の申す処と局等の申すところとがまるでウラハワ[ウラハラ]で、大阪では孰方が本当か解らぬやうになり、忠義の且元が遂に却けられて豊臣氏の末路となつたのは、一に家康の老獪が之を然らしめたかの如く謂はれるが、これは、家康が別に老獪であつたからで無く、婦女子に大義名分の立つた六ケしい話を聞かせたところでドウセ何の役にも立つもので無いと思つたから、之には本心を打ち明けて談らず、且元にだけ本当の話をしたに過ぎぬのである。
 兎角、成功した人は世間から嫉まるるものなので、如何に義しい順当な事ばかりをしても、その当時は素よりいふまでも無く、後世になつてからまでも老獪であるかの如くに観られ勝のものである。家康が今日の史論家によつて老獪を以て目せらるるのは、家康は成功した人であるからだ。之に反し、菅原道真は正直な人で、一点非難すべきところの無い聖人の如くに謂はれるのは、家康の如く成功せずに失敗を以て其生涯を終つたからである。成功者は総て老獪なもので、失敗せねば人は正直で正しくあり得ぬものだとすれば、貧乏人で無ければ義しい事は行へぬものだといふ理窟になる。天下に斯んな馬鹿な道理のあらう筈が無いのだ。
子曰。黙而識之。家而不厭。誨人不倦。何有於我哉。【述而第七】
(子曰く、黙して之を識し、学んで厭かず、人を誨《をし》へて倦まず、何れか我れに有る哉。)
 茲に掲げた章句に於て孔夫子の曰はれた事は一々真実で、孔夫子といふ御方は、少しぐらゐの智識を誇り気に揮り廻して談論せられたり学に飽き易かつたり、人を教へるのを厭がつたりする性質であられたとすれば、孔夫子の孔夫子たる価値が殆ど全く無くなつてしまふ事になる。依つて思ふに、恐らく斯の章句は世間に孔夫子を非難する声が轟々として起り、彼は碌々物を知つて居りもせず、研究もせず、さればとて教育者として子弟を懇篤に指導する熱心も無い男だなぞと、没分暁漢共の喧々たる声を耳にせられた時に、之に激して発せられたもので、そのうちには素より謙辞も含まれてるが又多少の皮肉も含まれ「如何にも左様で厶いますよ」と謂つたやうな意味もあるだらう。
 如何に学問して物識になつても、之を胸中にのみ秘め置き容易に発表せぬといふ如き床しき挙動に出る人は却〻見当らず、大抵の人は一を知れば之を十にして見せびらかしたがるものである。伊藤公でも大隈侯でも猶且みな斯の傾向があり、大隈侯などになれば殊に甚しく、盛んに一知半解の知識を揮り廻される。一知半解の知識を揮り廻して高論放言するぐらゐなら、その穉気愛すべしとして笑つてすまされもするが、少し性質の邪な人になると、その一知半解の知識を悪用して之を揮り廻し、自己の非を隠さうとさへするものだ。近頃の青年が、我が自堕落を弁護せんが為に、聞き噛り、ウロ覚えの西洋の新主義を主張するなぞが即ち其れである。誠に悲むべき現象なりと謂はねばならぬ。
 要するに一知半解の知識を揮り廻して物識顔をする人は、謙遜で無い人である。孔夫子は頗る恭謙の美徳に富まれた人であつたから、常に自己の足らざる処を悔い、汲汲として及ばざるを是れ唯恐れられたものである。それが茲に掲げた如き章句となつて顕れたのだ。私なぞも黙して之を識すといふ事は却〻難しくつてでき難い点だと思うて居る。然し、学びて厭かずといふ事には、多少自ら力めて居る積りで、別に学問を専門とする者でも無いから徹底するまで研究を継続するわけにもゆかぬが、自分独りで早合点せず、知らぬ事は飽くまでも学びたいとの心懸を持つて居る。若し夫れ人を誨へて倦かずといふ点に至つては、或は自分に於て多少能くし得るかと思ふのだ。然し、為に老人の長談義なぞと譏られるやも知れぬ。
子曰。徳之不修。学之不講。聞義不能徙。不善不能改。是吾憂也。【述而第七】
(子曰く、徳の修めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能はざる不善を改むる能はざる、是れ吾が憂なり。)
 茲に掲げた章句も、又是れ孔夫子の謙辞たるに過ぎぬのである。孔夫子にして真に徳を修めず、学を講ぜず、不善を改むる能はざる人であつたとすれば、孔夫子は聖人どころか全く取るにも足らぬ人物だ。孔夫子が斯の章句に於て、恰も自分が、徳を修めず、学を講ぜず、不善を改むる能はざる如くに曰はれたのは、自分を仮つて世間に徳の修まらぬ、学を講ぜざる、不善を改むる能はざる人々の多いのを慨せられ、之を諷せられたに過ぎぬのである。私なぞでも、他人に忠告する時には、「自分は薄徳だが……」とか何んとか前置きをして、それから今の世の中が一般に軽薄で、犠牲の精神に乏しく、利己的にばかりなつて困るといふやうな意を述べ、世間に警告を与へるのが例だ。恰度私が、今日の人が犠牲の精神に乏しく、軽薄で利己的なのを慨はしく思ふ如く、孔夫子も当時の社会に徳を修めず、学を講ぜず、不善を改むる能はざる人々が余りに多いのを憤慨せられ、斯る言を発するに至られたものだらう。
 孔夫子の説かれたところも「大学」と「論語」とではその説き方に非常な差がある。前条に談話したうちにも述べ置ける如く、「大学」は人が人生に処する道の大要に就て説かれたもので、為に其書を称して「大学」といふやうになつたのだが、冒頭の章句にある「明明徳」「親民」「止至善」の三条が全篇の骨子で、古来之を「大学」の三綱領と称んで居る。それからこの三綱領を実地に弘演する法として説かれた「平天下」「治国」「斉家」「修身」「正心」「誠意」「致知」「格物」は、古来「大学」の八条目と称せられて居るが、まづ初めに「古の明徳を天下に明かにせんと欲する者は、先づ其国を治む」と説き、順次斉家、修身、正心、誠意、致知、格物に及び、社会に於ける安寧幸福の根本は事物の観察研究にあるを示し、今度は更に改めて逆に説き、「物格りて而る後に知至る」から始めて、誠意、正心、修身、斉家に遡り、「国治りて而る後に天下平かなり」と結んだところは、実に面白い説き方であるとは謂はねばならぬ。然し、抽象的にのみ流れ、毫も実際の細目に渡つて居らぬ。論語に至つては然らず、世間の批評だとか、弟子等の苦情だとか、其他種々の難局に臨んで応酬せられた教訓であるから、これまでも屡〻申し置ける如く、実際に臨んで心に迷を生じた時に論語の教訓を尺度にして批判しさへすれば、人は大過無き一生を送り得らるるのだ。度々繰り返すやうではあるが、序であるから又申添へて置く。
 孟子は人の性は素と善なりと説き、性善説を主張したほどで、人間本来の面目は善である。悪は何人も好まざる処である。果して人の性が斯く善なるものであるならば、義を聞いたら直ぐ徙り、不善と知つたら直ぐ改め、徳を修め学を講じさうなものだが、実際は却〻さう行かず、孔夫子さへも「是れ我が憂なり」と仰せられたほどで、兎角人は徳も修めず、学も講ぜず、義を聞いても徙らず、不善も改めたがらぬものである。之はみな人に私があつて、七情に冒されるからだ。随分勝手我儘な行ひばかりして、世間に迷惑を懸けてばかり暮らす人でも、一朝他人の事になれば批判が正確で、あれは善いとか悪いとかと正鵠を得た判断を下し得らるるやうになるものである。然し自分の身に関する事になれば、判断が全然横径に外れてしまひ、大義名分を無茶苦茶にし、是を非とし、非を是とするに至るのは、人の性は素と善だが、一たび七情が起つて私が其間に挿まれば是非善悪の批判力を失ふに至るものだといふ何よりの証拠である。人に私さへ無ければ、孔夫子も論語衛霊公篇に於て「無為にして治まるものは其れ舜か、夫れ何をか為さんや、己れを恭しくして正しく南面するのみ」と説かれて居る如く、世の中に争ひ事なぞの起らう筈が無いのである。大抵の人が自分の非を弁護するには、誰某は斯く々々若か々々の事をしたから対抗上止む無く斯る道ならぬ行為に出でたといふのであるが、それが即ち私である。こんな人でも自分の行つたのと同じ事を他人が行れば猶且それは悪い事だと謂ふに相違無い。人には素と義を聞いて徙り、不善と知れば之を改むる本性のあるものだ。
 そこに至ると孔夫子は流石に豪いもので、過つては即ち改むるに憚ること無く、一寸した戯言でも、悪いと気付けば直に之を取消されたもので、論語陽貨篇には、之に就ての逸話がある。一日孔夫子が門人を引き率れられて、御弟子の一人なる子游が其の宰たる武城に遊ばれたところが、絃歌の声を聞き、これも子游が治道に妙を得て、民に礼楽を教へて居るからだと大に悦ばれ、子游ほどの男が斯んな小さな邑を治むるのに礼楽を以てするほどの事もあるまいとの意味から「鶏を割くに焉ぞ牛刀を用ゐん」との語を発せられた。之を聞いた子游は、孔夫子にも似合はしからぬ事を仰せらるるものかなと思ひ、「君子道を学べば人を愛し、小人道を学べば使ひ易しとは、曾て先生より教へられた処であるが、この精神を遵奉し、君子も小人も皆善良の邑民たるを得るやうにと、礼楽によつて民に道を学ばしむる方針を取り居るのに、却て孔夫子の御口から、礼楽にも及ぶまいとの仰せを聞くとは何んたる事であるか」と、攻撃の戈を孔夫子に向けたので、孔夫子も悪いことを言つたと心付かれ、「偃(子游の名)の言是なり、前言は之に戯るるのみ」と、失言を取消されたところは、孔夫子で無ければできぬことで、毫も自分の非を弁護せられようとせず、併も其御言葉に迫まつた処なく、綽々として余裕のあるのには私の如きただただ感服するより外は無いのである。「菜根譚」にも「己が心を昧まさず、人の情を尽さず、物の力を竭さず、以て天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、子孫の為に福を造すべし」とある。
 然し、世の中は十人十色で、孔夫子の如く自分の非を知れば毫も之を弁護する事無く、直に改むる人ばかりでは無い。理が非でも無理矢理に自分の言ひ分を貫徹しようとする者もある。斯ういふ人は如何に才智が勝れて居つても、又その人に非凡の技能があつても、世間の反感を買ひ、却て自分の志を行ひ得られ無くなるものだ。之は昔の一ト口ばなしにあることだが、或る男が銭湯に出かけ、湯に這入らぬうちから熱いものとばかり思ひ込み三助を呼んでウメて呉れろと頼むと、三助は湯槽に手を突つ込んで見て、熱いどころか微温くなつてるのを知つたので「微温いからウメるには及びません」といふと、その男は「微温い?微温くつても拘はぬからウメろ」威猛高になつて命じたといふ譚がある。如何にも妙な処へ意地を張つて我意を貫徹しようとしたものだと思ふが、斯んな傾向の人は決して世間に少く無いのである。宋の神宗皇帝の時代に、盛んに新法新制を施いた王安石なぞが猶且この種類の人物であつたらしく思へる。王安石が地を割いて遼に与へ、「将に取らんと欲すれば必ず姑く之を与へん」と叫び、東西七百里の地を失つたなぞは明かに能く王安石の性質を顕はしたものだ。
 人にはみな妙な癖のあるもので、他人の失言や無理な行為は之を彼是と非難するが、自分の言動には如何に失言や無理があつても、之を弁護せねばならぬ義務があるかの如く心得て、直に何んの彼んのと付けられもせぬ理窟を無理に付けて、我が非を無理に遂げようとしたがるものだ。如何に三百理窟を捏ねあげて、一時自分の非を糊塗して見たからとて、失言は依然として失言、無理な行為は依然として無理な行為である。そんな馬鹿な役にも立たぬ事に潰す暇があつたら、それよりも失言を早く取消し、無理な行為に対しては改悛の情を示し、以後その過ちを再びせぬやうに心懸けるが何よりである。然らばその人は、自分の失言を弁護したり、無理な行為に理窟をつけて烏を鷺と言ひくるめるよりも遥にその人品を高める事になる。自分で自分の失言非行を無理な理窟で弁護するほど、世の中に見つともないものは無いのである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.223-233
底本の記事タイトル:二五二 竜門雑誌 第三五七号 大正七年二月 : 実験論語処世談(第卅二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第357号(竜門社, 1918.02)
初出誌:『実業之世界』第14巻第20-22号(実業之世界社, 1917.10.15,11.01,11.15)