デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.247-254
穂積家に嫁した私の長女宇多は、読書に趣味を有ち、いろいろ古い書籍を渉猟つて読んでるので、この石川雅望の「シミノスミカ物語」が頗る面白い譚を寄せ集めてあるのに興を催し、是非一度読んで見よと私に勧めてくれたもんだから、勧めらるるに任せて読んでみた。成る程、如何にも面白い、剽軽な小さな譚が満載せられてある。今なほ記憶に存する一つを話せば――或る処に一人の後家さんがあつて、毎日壺の中から何か取り出して楽しさうに味つてるのを見た其家の執事が、或る日主人の留守中に、窃に其壼を持ち出し、よく内容を調べて見ると、それは金米糖であつた。之を口に入れたら定めし甘いことであらうと思つた件の執事は、直に己が手を壼の中へ突つ込み、将に金米糖を摘み出さんとする一刹那、主人が帰つて来たので大に周章狼狽き手を壺から抜かうと燥急るが何うしても抜け無い。止む無く壼を何かに打つ付けて破壊してしまつたが、手の抜け無かつたも道理、金米糖を一杯に握んで壺の中に大きな握眷を拵へ、壼を破壊してから後までもなほ金米糖を握つたまま放さずに居つたのだから。――こんな面白い譚ばかりが「シミノスミカ物語」には載つてるのである。
九代目団十郎が、秀抜なる技芸のある俳優であつたと共に、品位のある俳優たるを得たのは、単に当人の天品が之を然らしめたのみならず其家系が良かつた為である事は既に申述べて置いた通りであるが、「シミノスミカ物語」の著者石川雅望は九代目団十郎の実父に当る七代目団十郎と懇意であつたので、七代目が俳号を「白猿」と称したのに因み、「見ざる」「聴かざる」「言はざる」の三猿を旨く詠み込んで
白猿を見ざる聴かざる人までも
イヨ親玉と言はざるは無し
の狂歌一首をものし、当時の評判になつたほどだ。之によつて見ても七代目団十郎の白猿が如何に優れた俳優であつたかを知り得らるることだらうと思ふが、団十郎の家の代々からは斯く名優が続出して居るのである。イヨ親玉と言はざるは無し
子曰。不憤不啓。不悱不発。挙一隅不以三隅反。則不復也。【述而第七】
子曰く、憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、即ち復びせず。)
茲に掲げた章句は、教育には学者をして自ら啓発せしむる事の必要なる所以を述べたもので、其の趣旨は、注入教育の労多くして益少なきを説かんとするにある。昨今の教育界にも注入教育の効果少き所以を挙げ、啓発教育を鼓吹する大勢を生ずるやうになつたが、斯る教育の必要は今更事新しく論ずるまでも無く、孔夫子が二千五百有余年前の昔に於て業に已に主張せられた処である。子曰く、憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、即ち復びせず。)
「憤」とは、実地の事態に当つて「これでは成らぬ」と覚る事で、「悱」とは「あアもしたら宜からうか、斯うもしたら宜からうか」と悶え苦むの意である。人間は却〻横着の者ゆゑ、他人から手を取つて教へらるる事にばかり慣れてしまへば、自分で発明するといふ事が全く無くなつてしまふものだ。私が、岡部の陣屋で安部摂津守様の代官に侮辱せられ、「これでは成らぬ」といふ気を起したのが誘因になり町人百姓の位置を高かめようと志すに至つたことなぞも、憤する処があつた為に啓したのである、と謂ひ得らるるだらうと思ふ。附け焼刃はマサカの時に役に立つもので無い。
大岡越前守と謂へば、古今の名奉行で、頗る智慮に富んだ人であるが、伊勢山田の奉行から江戸の町奉行に転ずるや、如何にかして此の大任を完全に果たしたいものであるとの一念より、一日当時の大学者であつた物徂徠先生を我が役宅に御招き致し、「越前守こと今回天下の町人を取締るべき重大の役目仰付けられたるに就ては、事理を過まるやうなことがあつては幕府に対し申訳無き次第ゆゑ是非とも先生の門に入つて学問上の教を受けたいものである」と申入れた。ところが徂徠先生は断乎として大岡越前守の申入れを拒絶し、「俄仕込みの学問は附焼刃になるばかりで、到底之を腹の底から体得するわけに行かぬものだ。其許の御性質は元来頓智に富ませられ、裁判事にかけて是非を誤まる如き憂ひは無いとの評判である。然るに、今若し俄に学問なんかを始められると、之が却つて禍と成り、大事に臨んで決断の逡巡を来し、大義名分を誤まるに至る恐れがある。何事にも俄仕込の附焼刃は禁物ゆゑ、若し強ひて学問をしたいとの御希望ならば、役を退いてから、老後の保養旁〻ゆるゆる御始めになるが可からう」と答へられたので、越前守も「成る程!」と合点し、物徂徠の弟子になるのを見合せたとの事であるが、実地に臨んで工夫研究してからで無いと学問の真味は到底解るもので無いのだ。
九代目団十郎といふ人にも随分弟子は沢山あつたが、あの人は世間の俳優たちの如く弟子の手を取つて教へるやうな事をせず、ただ自分の演る処を見せて置くだけで、余は総て当人の自ら工夫研究する処に任せて置いたものなさうである。団十郎の弟子に秀れた者の多く出たのは、恐らく斯の啓発教育の賜だらう。何うも子弟の教育は余り細目に亘つてこまこましく説いて聞かせるよりも、四隅あるものならば一隅を挙げてやる丈けで、残る三隅は之を当人等に反させるやうにするのが宜しいかの如くに思はれる。故に、孔夫子も茲に掲げた章句に於て「四隅ある学問ならば、師は唯その一つの隅を挙げてやるのみに止め、他の三つの隅は、当人等が自分の力で挙げて反問して来るほどの意気込みある篤学者に非る限りは、之に再び教を説くやうな事は致さぬ」と仰せになつたのである。然し、この章句を余り字句に拘泥して解釈すれば「述而」篇の冒頭にある「人に誨へて倦まず」の語と矛盾衝突する事になる。この章句の真の意味は「一隅を挙げてやつても三隅を以て反せざる者には二度と教へぬ」といふのでは無く、「苟も師に就て教を受けんとする者は、一隅を挙げてもらつた丈けで、残る三隅は自力で反すぐらゐの心懸けが無ければならぬものである」との意を説き、主として人の弟子たるものの心懸に就て教訓を垂れられたるものであらうと思ふのだ。
子食於有喪者之側。未嘗飽也。子於是日哭。則不歌。【述而第七】
(子、喪ある者の側に食すれば、未だ嘗つて飽かざる也。子、是の日に於て哭すれば、即ち歌はず。)
論語のうちでも「郷党」篇なんかに於ては、孔夫子が礼儀に就て説かれた教訓を随分沢山に載せてある。支那は古来礼儀作法の厳格なる邦で、俗にも礼儀三百威儀三千といふほどであるが、余り形式が細目に亘つて細かくなると、却つて礼儀の精神が没却せられてしまふやうになる恐れのあるものだ。又、修養の到らぬ人は、ただ礼儀の形式を形式的に守るのみで、その精神を体得する事を忘れてしまふものである。孔夫子に至つては然らず、礼儀の形式を尊重して之を遵守せられたと共に、その精神をも重んぜられたのである。(子、喪ある者の側に食すれば、未だ嘗つて飽かざる也。子、是の日に於て哭すれば、即ち歌はず。)
茲に掲げた章句は、孔夫子が実行の上に於て礼儀の精神を重んぜられた事実を挙げたもので、孔夫子は流石大聖人丈あつて、苟も死んだ人がある喪中の家へ訪れられでもすれば、単に形式上の弔みを申述べらるるのみに止まらず、心の底より死者の遺族に同情して哀愁の念を催し、御飯も碌々咽喉を通らぬといふほどに成られ、又他人の喪を弔して哭かれた事のある日には、謡を唄つて笑ひ興ずるが如きことを決して為られなかつたものだと、孔夫子の行状を称揚し、万人をして之に習はしめんとしたのがこの章句の真意である。然るに今日の支那人を観るに、茲に掲げた章句にある孔夫子の行状の如く、精神を主として形式を副とする如き国民的気風無く、総ての礼儀は形式ばかりとなり、精神の抜けてしまつたも脱けの殻同様、徒に繁雑な丈けで全く形式ばかりのものになつてしまつて居る。随つて今日の支那人には喪者の側で飽き、死人を前にして弔詞を述べて居る一方に於て金銭の争ひをする如き者を続々として出すに至り、支那の事は何事によらず形式ばかりで精神の無いものとなり、葬式にも、喪にある者が衷心より真に哀愁を催して泣く如きことを為さず、泣き男を傭つて之に「オイオイ」泣かせるといふやうになつてしまつたのである。然し、斯る弊は恐らく昔から支那にあつたもので無く、宋以後の事であらうと私は想ふのだ。
我が邦でも、心無い人々の寄り集りには、喪ある者の側に食して飽くを知らざるどころか、死者のある家に行つて振舞ひ酒に酔ひ、ドンチヤン騒ぎをして平然たる者すらある。こんな事では折角死者の為に通夜をしたり何んかしても、それは全く無意義のものである。
子謂顔淵曰。用之則行。舎之則蔵。惟我与爾有是夫。子路曰。子行三軍則誰与。子曰。暴虎馮河。死而無悔者。吾不与也。必也臨事而懼。好謀而成者也。【述而第七】
(子、顔淵に謂つて曰く、之を用ふれば則ち行ひ、之を舎つれば則ち蔵る。惟我と爾と是あるか。子路曰く、子、三軍を行らば則ち誰と与にせん。子曰く、暴虎馮河、死して悔無き者は吾は与みせず、必ずや事に臨んで懼れ、謀を好んで成す者なり。)
茲に掲げた章句にある「暴虎」とは、武器も何んにも持たず素手で猛虎を搏つこと、「馮河」とは舟無くして大河を徒渉する事で、孔夫子が一日、顔淵と子路との三人で色々談話を交換して居らるるうち、何か感じた処があらせられたものか、「幸ひに用ひらるれば大に我が志を行ひ、又用ひられぬからとて敢へて天を怨み人を恨むる如き事を為さず、経綸を胸中に蔵して悠々たるを得る者は、まア孔子と顔淵の外には他に無からう」と顔淵を顧みて仰せになると、例の元気の佳い覇気に富んだ子路は、自分が孔夫子によつて閑却せられて居るのが癪に障つて癪に障つて堪らず、「それにしても、一軍一万二千五百人、三軍合して三万七千五百人にも達するほどな一国の大軍を動かすのは子路の如き勇者にして初めてできることで、夫子や顔淵の如き君子肌の人には迚もできますまい」と、我が勇を鼻にかけて横合から口を差出したのである。すると孔夫子は子路が勇に誇る色あるを戒められ、「如何に野蛮な戦争でも、素手で虎を搏ち殺さうとしたり、汪洋たる大河を足で舟も無く渉らうとする如き無謀の士と一緒になつてはできるもので無い。孔子は仮令戦争をするにしても充分に智慮を働かせ謀を運らして戦ふ智者とのみ事を与にする」と仰せられたといふのが、この章句の意味である。(子、顔淵に謂つて曰く、之を用ふれば則ち行ひ、之を舎つれば則ち蔵る。惟我と爾と是あるか。子路曰く、子、三軍を行らば則ち誰と与にせん。子曰く、暴虎馮河、死して悔無き者は吾は与みせず、必ずや事に臨んで懼れ、謀を好んで成す者なり。)
如何にも孔夫子の仰せられた通りで、戦争とても、決して腕力だけでは行れるもので無い。猶且頭を要する。頭で戦争をせねばならぬのだ。殊に近世の戦争は殆ど数学で行つてると謂つても差支無いほどのもので、現に日本の参謀本部には天下の人才が最も多く寄せ集められて居るとさへ言はれて居るほどだ。戦争は止むを得ざるに及んで初めて行るべきもので、好んで行るべきものでは無いが、戦争も腕力競べよりは智恵競べが主になる。
幕府の末路に勇名を轟かした新撰組の近藤勇は、今でも一般から暴虎馮河の士であつたかの如くに視られて居るが、同人は世間で想ふやうな無鉄砲な男では無かつたのである。私より僅かに五六歳ばかりの年長者であつたに過ぎぬが、維新頃は只今と違つて五つか六つも齢が上だと、余ほどの年寄であるかの如くに考へられて居つたものだ。近藤勇は武州多摩郡の生れで、幕末に当り幕府が勇士を募つた時に、同郷の土方歳三と共に之に応じて新徴組と称せらるる壮士の団体に加はり、文久三年の春、十四代将軍家茂公が朝廷の詔により上洛せられた際に扈従して京都に入り、新徴組の解散せらるるに及んで自ら隊長となつて新撰組を組織し、爾来京都守護職の手に属して京都の警衛に任じて居つたのだが、明治元年慶喜公が大阪より江戸へ逃れ給ふに当り公に従つて江戸に帰り、慶喜公に挙兵を御勧め申したのである。然るに慶喜公に於かれては恭順の意篤くあらせられ、近藤の説を御聴き容れにならなかつたので、大久保大和と変名して部下の兵百余人を率ゐ甲斐に於て官軍に抗し、遂に官軍の参謀香川敬三の術策に陥つて捕へられ、斬に処せられてしまつたものだ。私は二度ほど近藤に遇つて話をしたことがある。
その際近藤勇は、本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為同道し得られぬから、代理として土方歳三を遣はすとの事で、同人は四人ばかりの壮士を率ゐて私の護衛に来たのである。同日午後探偵を放つて大沢源次郎の動静を窺はせると、まだ寓居へは帰つて居らぬとの事で、一同は晩餐の為小さな飲食店に立寄り弁当を食べてから、大沢の帰宅を確めて、紫野大徳寺境内なる同人の寓居へ赴いたのだが、私が申渡しをしてから同人を縛るか、縛つてから私が申渡しをするかに就て私と新撰組の壮士との間に意見を異にし、遂に私の意見に従ひ、私が陸軍奉行よりの命を伝へてから後に大沢の大小を取り上げ、同人を新撰組壮士の手に引渡すやうにした次第は、既に前条に詳しく申述べて置いた通りである。
私は這的事件があつてから後に近藤勇と始めて会つたのだが、会つて見ると存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣なんか無く、能く事理の解る人であつたのだ。然し、近藤は飽くまで薩摩を嫌ひな人で、薩州人とは倶に天を戴かざる概を示して居つたものだから、薩州人に対してのみは過激な態度を取つたりなぞしたので、一見暴虎馮河の士の如くに世間から誤解せらるるやうにもなつたのである。
遮莫、新撰組の隊長としての近藤勇は、幕末当時却々勢力のあつたものだ。部下の人数は漸く二百人足らずのもので、長脇差を差込んで手拭を腰に挟んでると謂つたやうな壮士ばかりであつたのだが、それが幕府に直属して居つたのである。申さば頭山満氏の率ゐて居つた玄洋社の壮士が、警視庁の直属になつたも同じやうなもの故、新撰組が幕末に当つて勢力を揮つたのは当然で、又為に能く京都警護の任をも尽し得たのである。
浅野氏は物事の見積が非常に敏捷明確な人で、何んな仕事をするに当つても、費用が何れくらゐ懸るか、何れ程の人数を要するか、幾日ぐらゐの日数で出来上るかといふ見積が直ぐ立つ。鶴見の造船所が那的ほど早く出来上つたのも、畢竟、浅野氏が見積の上手な人であるからで、這的だけの費用を投じこれ丈けの人数を以てすれば幾日の日数でチヤンと出来上るといふ見積が正確に立つたから、かの如く造船所の工事を順調に進め得たのだ。
然るに浅野氏が如何にも強慾の人であるかの如く、危険な人物であるかの如くに誤解せらるるのは、何事にも他を益するといふよりも自分を富まさうとの観念が先きに立つからである。自分を富まさうとする事も、他人を益さうとする事も、結局実際に臨めば同じになつてしまひ、利他は自富となり自富は利他にもなるのだが、自富を先きにするのと利他を先きにするのとでは、同じ事を営んで同じく自ら富むにしても、それまでになる筋立に違つた処のあるものだ。その筋立の差によつて、強慾で危険な人物であるかの如く世間から想はれたり、或は斯く思はれずに済んだりするのである。
私とても学問は無いが、浅野氏は又私よりも更に学問が浅い。随つて、郷里より東京へ出た時には、自ら富まうといふのが浅野氏の目的であつたのだ。この初一の精神が何時何をするに当つても浅野氏の胸裡を支配する主位の観念となるので、元来は強慾の人でも無く危険な人物でも無いのだが、一見強慾危険なる暴虎馮河の人なるが如く世間から視られてしまつたのである。浅野氏は先見の明があつて見積の巧者な人であるから、事業の経営に当つて若し国家の利益を増進する為に尽さうといふ観念を第一位に置き、自ら富まうとする念慮を其次へ置くやうにしさへすれば、今日の如く世間から誤解せらるる憂ひも無くなるだらうと思ふ。
漢学の素養のある人は、何うしても自ら富まうとするよりも国家を利さうとする観念が先きに立つものである。これは「大学」の巻頭を披いても、直ぐ「治国平天下」の教が書いてあり、一人一己の修身斉家の教を以て終らず、身を修め家を斉ふる、所以は国を治め天下を平かにするを目的とするものなるを懇々と説き、人生最終の目的は国を治めて天下を平かにするにあるを教へて居るからだ。漢学を学ぶ者はこの教訓の間に育つて来るので、何うしても自分の利益よりは先づ国家の利益を先にしようといふ事になる。浅野氏には、この漢学の素養が無いから、かの如く成られたのであらうと思ふ。
人をして大事を成し遂げ得せしむると否とは、その人の位置によつて決せられるるもので無いのである。その人の心懸け如何、修養如何否人物如何によることだ。用ひられぬ為駄目になつてしまふやうな人は用ひられても猶且駄目なものである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.247-254
底本の記事タイトル:二五八 竜門雑誌 第三六〇号 大正七年五月 : 実験論語処世談(卅五回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第360号(竜門社, 1918.05)
初出誌:『実業之世界』第15巻第4,5号(実業之世界社, 1918.02.15,03.01)
底本の記事タイトル:二五八 竜門雑誌 第三六〇号 大正七年五月 : 実験論語処世談(卅五回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第360号(竜門社, 1918.05)
初出誌:『実業之世界』第15巻第4,5号(実業之世界社, 1918.02.15,03.01)