7. 新撰組の勢力ありし所以
しんせんぐみのせいりょくありしゆえん
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その際近藤勇は、本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為同道し得られぬから、代理として土方歳三を遣はすとの事で、同人は四人ばかりの壮士を率ゐて私の護衛に来たのである。同日午後探偵を放つて大沢源次郎の動静を窺はせると、まだ寓居へは帰つて居らぬとの事で、一同は晩餐の為小さな飲食店に立寄り弁当を食べてから、大沢の帰宅を確めて、紫野大徳寺境内なる同人の寓居へ赴いたのだが、私が申渡しをしてから同人を縛るか、縛つてから私が申渡しをするかに就て私と新撰組の壮士との間に意見を異にし、遂に私の意見に従ひ、私が陸軍奉行よりの命を伝へてから後に大沢の大小を取り上げ、同人を新撰組壮士の手に引渡すやうにした次第は、既に前条に詳しく申述べて置いた通りである。
私は這的事件があつてから後に近藤勇と始めて会つたのだが、会つて見ると存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣なんか無く、能く事理の解る人であつたのだ。然し、近藤は飽くまで薩摩を嫌ひな人で、薩州人とは倶に天を戴かざる概を示して居つたものだから、薩州人に対してのみは過激な態度を取つたりなぞしたので、一見暴虎馮河の士の如くに世間から誤解せらるるやうにもなつたのである。
遮莫、新撰組の隊長としての近藤勇は、幕末当時却々勢力のあつたものだ。部下の人数は漸く二百人足らずのもので、長脇差を差込んで手拭を腰に挟んでると謂つたやうな壮士ばかりであつたのだが、それが幕府に直属して居つたのである。申さば頭山満氏の率ゐて居つた玄洋社の壮士が、警視庁の直属になつたも同じやうなもの故、新撰組が幕末に当つて勢力を揮つたのは当然で、又為に能く京都警護の任をも尽し得たのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.247-254
底本の記事タイトル:二五八 竜門雑誌 第三六〇号 大正七年五月 : 実験論語処世談(卅五回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第360号(竜門社, 1918.05)
初出誌:『実業之世界』第15巻第4,5号(実業之世界社, 1918.02.15,03.01)