デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一

4. 性理学と考証学と

せいりがくとこうしょうがくと

(35)-4

 宋以前の支那の学問は総て実践的社会的のもので、頗る倫理的傾向を帯び、孟子の如き「滕文公章句下」に於て、彭更と申す人が「世間が善人に食を与へるのは志に食ましむるのだ」と曰へるに対し、「志に食ましむるに非ず、功に食ましむるなり」と説かれたほどで、何よりも実践躬行を重しとし、効果の挙らん事を期したものである。然るに宋に入つて以来専ら性理説なるもの行はれ、徒に空理の談論に流れ実行を蔑視するやうになつてしまつたものだから、理論に合ふやうな形式だけは如何にチヤンと制定せられてあつても、実践躬行が其れに伴はず、折角の礼儀作法も全く社会生活の実際に触れる処が無いやうになつてしまつたのだ。殊に斯の弊は清朝に至り考証学の勃興を見るに及んで愈よ激しくなり、何事にも形式ばかりが厳しく備はつて、精神も実行も伴はぬものになつてしまつたのである。私は浅学の者ゆゑ余り深い事は解らぬが、支那人が今日国民として持つてる欠点は、清朝に入つて奨励された考証学に助長せられた処が甚だ多いだらうと思ふのである。孔孟の時代にも斯の弊が全く無かつたといふでも無からうが、今日ほどに激しくは無かつたらうと思ふのである。形式のみを重んじて精神を疎略かにすれば、支那人のみならず誰でも皆な今日の支那人の如き者になつてしまふより他に道は無いのである。
 我が邦でも、心無い人々の寄り集りには、喪ある者の側に食して飽くを知らざるどころか、死者のある家に行つて振舞ひ酒に酔ひ、ドンチヤン騒ぎをして平然たる者すらある。こんな事では折角死者の為に通夜をしたり何んかしても、それは全く無意義のものである。

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キーワード
性理学, 考証学
デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.247-254
底本の記事タイトル:二五八 竜門雑誌 第三六〇号 大正七年五月 : 実験論語処世談(卅五回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第360号(竜門社, 1918.05)
初出誌:『実業之世界』第15巻第4,5号(実業之世界社, 1918.02.15,03.01)