デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一

6. 新撰組の近藤勇氏

しんせんぐみのこんどういさみし

(35)-6

 腕力や勇気が主になつてるかの如くに見える戦争に於てさへ、暴虎馮河の人は迚も駄目なものだとすれば、況んや其他の事業に於てをやで、向う見ずの猪勇は必ず失敗の原因になる。然し臆病な人は枯尾花を見ても、之を幽霊と間違へてブルブル慄ひあがつたりなぞするやうに、胆玉の据つて居らぬ人は、猫を見ても之を虎と誤つたり、足の踝までしか水の無い浅い河の瀬を見ても、胸の辺まで水の達する深い大河であるかの如く思ひ違へたりなぞするものだ。それが為暴虎馮河でも無い安全な仕事をも、一概に暴虎馮河であるかの如く稽へて之が着手に逡巡する如き人が世間に無いでも無い。余り物事に用心し過ぎると斯んな臆病風に襲はれ、何事にも怖くつて手出しのならぬやうになつてしまふ恐れもある故、事を処するに当つては、予め能く謀り、軽挙の無いやうにせねばならぬには相違無いが、その結果臆病になつてしまつてはならぬものである。然し、猫と虎との別を能く弁へ、浅瀬と大河との別を能く知り、臆病風に襲はるる如き事の無いやうになるのには、猶且智慧を働かさねばならぬのである。
 幕府の末路に勇名を轟かした新撰組の近藤勇は、今でも一般から暴虎馮河の士であつたかの如くに視られて居るが、同人は世間で想ふやうな無鉄砲な男では無かつたのである。私より僅かに五六歳ばかりの年長者であつたに過ぎぬが、維新頃は只今と違つて五つか六つも齢が上だと、余ほどの年寄であるかの如くに考へられて居つたものだ。近藤勇は武州多摩郡の生れで、幕末に当り幕府が勇士を募つた時に、同郷の土方歳三と共に之に応じて新徴組と称せらるる壮士の団体に加はり、文久三年の春、十四代将軍家茂公が朝廷の詔により上洛せられた際に扈従して京都に入り、新徴組の解散せらるるに及んで自ら隊長となつて新撰組を組織し、爾来京都守護職の手に属して京都の警衛に任じて居つたのだが、明治元年慶喜公が大阪より江戸へ逃れ給ふに当り公に従つて江戸に帰り、慶喜公に挙兵を御勧め申したのである。然るに慶喜公に於かれては恭順の意篤くあらせられ、近藤の説を御聴き容れにならなかつたので、大久保大和と変名して部下の兵百余人を率ゐ甲斐に於て官軍に抗し、遂に官軍の参謀香川敬三の術策に陥つて捕へられ、斬に処せられてしまつたものだ。私は二度ほど近藤に遇つて話をしたことがある。

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新撰組, 近藤勇
デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.247-254
底本の記事タイトル:二五八 竜門雑誌 第三六〇号 大正七年五月 : 実験論語処世談(卅五回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第360号(竜門社, 1918.05)
初出誌:『実業之世界』第15巻第4,5号(実業之世界社, 1918.02.15,03.01)