デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一
9. 維新時代の元勲は如何
いしんじだいのげんくんはいかん
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「之を用ひれば則ち行ひ、之を舎れば則ち蔵る」といふ態度の人は却〻世間に尠ないもので、維新の元勲なぞにも、斯る態度の人は甚だ稀れであつた。大久保卿にしても伊藤公にしても、将又大隈侯にしても、みな「我れ古を成さん」の意気込みで世に処せられた人々で、用ひられざるも猶ほ行はんとし、自分の力で新らしい時代を作らうとする事に意を注がれたものだ。舎てて用ひられざる時には穏しく自分の技能力量を蔵して居るといふわけに行かなかつたのである。この間に於て、僅に徳川慶喜公、西郷隆盛卿、西郷従道侯などが、用ひられ無い時には敢て行はうとせず、深く蔵して雌伏することのできた人々であつたと謂へるだらう。如何に用ひられ無くつても、穏しくして暮らし、敢て自ら進んで行はうとせぬ如き人のうちには、往々そのままベタベタになつて終つてしまつたり、或は自暴自棄に陥つて自ら我が身を亡ぼしてしまふやうな者が兎角有り勝だ。用ひられずして舎てられたからとて、自重する事を忘れて自暴自棄に陥り身を亡すに至るが如きは全く愚の極であるが、用ひられぬからとて自暴自棄に陥る如き人は如何に用ひられたからとて大に行ひ得るもので無いのである。また其れと同じで、用ひられぬからとて意気沮喪し、ベタベタになつて倒れてしまふ如き人も亦如何に用ひられたからとて、大事に当り得られるものでは無い。是又猶且ベタベタになつて倒れてしまふものだ。
人をして大事を成し遂げ得せしむると否とは、その人の位置によつて決せられるるもので無いのである。その人の心懸け如何、修養如何否人物如何によることだ。用ひられぬ為駄目になつてしまふやうな人は用ひられても猶且駄目なものである。
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- デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.247-254
底本の記事タイトル:二五八 竜門雑誌 第三六〇号 大正七年五月 : 実験論語処世談(卅五回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第360号(竜門社, 1918.05)
初出誌:『実業之世界』第15巻第4,5号(実業之世界社, 1918.02.15,03.01)