2. 孔子は非注入教育
こうしはひちゅうにゅうきょういく
(35)-2
子曰。不憤不啓。不悱不発。挙一隅不以三隅反。則不復也。【述而第七】
子曰く、憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、即ち復びせず。)
茲に掲げた章句は、教育には学者をして自ら啓発せしむる事の必要なる所以を述べたもので、其の趣旨は、注入教育の労多くして益少なきを説かんとするにある。昨今の教育界にも注入教育の効果少き所以を挙げ、啓発教育を鼓吹する大勢を生ずるやうになつたが、斯る教育の必要は今更事新しく論ずるまでも無く、孔夫子が二千五百有余年前の昔に於て業に已に主張せられた処である。子曰く、憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、即ち復びせず。)
「憤」とは、実地の事態に当つて「これでは成らぬ」と覚る事で、「悱」とは「あアもしたら宜からうか、斯うもしたら宜からうか」と悶え苦むの意である。人間は却〻横着の者ゆゑ、他人から手を取つて教へらるる事にばかり慣れてしまへば、自分で発明するといふ事が全く無くなつてしまふものだ。私が、岡部の陣屋で安部摂津守様の代官に侮辱せられ、「これでは成らぬ」といふ気を起したのが誘因になり町人百姓の位置を高かめようと志すに至つたことなぞも、憤する処があつた為に啓したのである、と謂ひ得らるるだらうと思ふ。附け焼刃はマサカの時に役に立つもので無い。
大岡越前守と謂へば、古今の名奉行で、頗る智慮に富んだ人であるが、伊勢山田の奉行から江戸の町奉行に転ずるや、如何にかして此の大任を完全に果たしたいものであるとの一念より、一日当時の大学者であつた物徂徠先生を我が役宅に御招き致し、「越前守こと今回天下の町人を取締るべき重大の役目仰付けられたるに就ては、事理を過まるやうなことがあつては幕府に対し申訳無き次第ゆゑ是非とも先生の門に入つて学問上の教を受けたいものである」と申入れた。ところが徂徠先生は断乎として大岡越前守の申入れを拒絶し、「俄仕込みの学問は附焼刃になるばかりで、到底之を腹の底から体得するわけに行かぬものだ。其許の御性質は元来頓智に富ませられ、裁判事にかけて是非を誤まる如き憂ひは無いとの評判である。然るに、今若し俄に学問なんかを始められると、之が却つて禍と成り、大事に臨んで決断の逡巡を来し、大義名分を誤まるに至る恐れがある。何事にも俄仕込の附焼刃は禁物ゆゑ、若し強ひて学問をしたいとの御希望ならば、役を退いてから、老後の保養旁〻ゆるゆる御始めになるが可からう」と答へられたので、越前守も「成る程!」と合点し、物徂徠の弟子になるのを見合せたとの事であるが、実地に臨んで工夫研究してからで無いと学問の真味は到底解るもので無いのだ。
九代目団十郎といふ人にも随分弟子は沢山あつたが、あの人は世間の俳優たちの如く弟子の手を取つて教へるやうな事をせず、ただ自分の演る処を見せて置くだけで、余は総て当人の自ら工夫研究する処に任せて置いたものなさうである。団十郎の弟子に秀れた者の多く出たのは、恐らく斯の啓発教育の賜だらう。何うも子弟の教育は余り細目に亘つてこまこましく説いて聞かせるよりも、四隅あるものならば一隅を挙げてやる丈けで、残る三隅は之を当人等に反させるやうにするのが宜しいかの如くに思はれる。故に、孔夫子も茲に掲げた章句に於て「四隅ある学問ならば、師は唯その一つの隅を挙げてやるのみに止め、他の三つの隅は、当人等が自分の力で挙げて反問して来るほどの意気込みある篤学者に非る限りは、之に再び教を説くやうな事は致さぬ」と仰せになつたのである。然し、この章句を余り字句に拘泥して解釈すれば「述而」篇の冒頭にある「人に誨へて倦まず」の語と矛盾衝突する事になる。この章句の真の意味は「一隅を挙げてやつても三隅を以て反せざる者には二度と教へぬ」といふのでは無く、「苟も師に就て教を受けんとする者は、一隅を挙げてもらつた丈けで、残る三隅は自力で反すぐらゐの心懸けが無ければならぬものである」との意を説き、主として人の弟子たるものの心懸に就て教訓を垂れられたるものであらうと思ふのだ。
- デジタル版「実験論語処世談」(35) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.247-254
底本の記事タイトル:二五八 竜門雑誌 第三六〇号 大正七年五月 : 実験論語処世談(卅五回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第360号(竜門社, 1918.05)
初出誌:『実業之世界』第15巻第4,5号(実業之世界社, 1918.02.15,03.01)